「引き受けるつもりだった」 張本勲さんの“巨人打撃コーチ”就任は幻に終わった【プレイバック「私が見た張本勲」】#2
【プレイバック「私が見た張本勲」】#2
【前回を読む】張本勲さんは「夢でひらめき、飛び起きて素振り」 現役時代に明かしていた「安打製造機」の苦悩と執念
■「巨人あの日あの時あの事件」(第18回=2015年)を再公開
「安打製造機」と称され、日本プロ野球史上唯一の通算3000安打を達成した張本勲さんが亡くなった。打席で見せた勝負への執念、歯に衣着せぬ物言い、そして人情味あふれる素顔。球界に大きな足跡を残した張本さんは、身近に接した人々にどんな記憶を刻んだのか。
過去に日刊ゲンダイで掲載された「巨人あの日あの時あの事件」(第18回=2015年)を再公開する。年齢、肩書などは当時のまま。
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マシンガン打線の横浜(現DeNA)が優勝した98年。前年4位の巨人はAクラスこそ確保したものの3位に終わり、2年連続で優勝を逃した。3年契約の最終年だった長嶋監督は8月19日、渡辺恒雄オーナー(当時)と会談。成績不振の責任を取って退任を申し出ていた。一度、巨人はこれを了承。9月初め、「長嶋監督勇退、巨人来季監督に森祇晶氏決定」の報道が流れた。森氏は86年から94年まで、西武の監督としてリーグ優勝8回、日本一6回。巨人はチームの再建をこの「常勝監督」に託すはずだった。
内定していた「森巨人監督」がご破算になったのは、長嶋監督や有力な巨人OBの強い反発があったからだといわれているが、当時の森氏は悲願の巨人監督のために着々と準備を進めていた。
西武で常勝監督となった森氏を支えた参謀役が黒江透修氏(円内)だった。森氏は巨人監督就任の際は黒江氏をヘッドコーチに迎えるはずだった。
「私はダイエー(現ソフトバンク)監督の王(貞治)さんに呼ばれて、98年から助監督として福岡に行きました。その前年は森さんと同じく評論家でした。ある日オリックス戦が行われる神戸で森さんから『おい黒、おまえ、またチャンスがあったらユニホームを着る気があるか。もしどこかの球団から話があったらオレに言ってくれんか。すぐに返事をするなよ』と言われたのです。その年のオフ、王さんから誘われたので森さんに連絡すると、『会ってもいいけど、すぐに返事をするなよ』と言われました。おそらくその頃は巨人ではなく、横浜から監督の要請があったのではないか」
黒江氏がダイエー助監督としてスタートを切った98年の夏。再び森氏から電話があり、こんなやりとりをしたという。
「黒、ダイエーとは何年契約だ?」
「2年です」
「何で1年契約にしなかったんだ!」
「そんなこと言っても、王さんも2年ですから、黒江さんも2年でお願いしますと、言われたんです」
「そうか……」
巨人の来季監督に森祇晶氏決定の報道があったのはその数日後だった。
「森さんは私をヘッドコーチとして考えていたようです。正式に話があってもダイエーとの契約が1年残っていたので森さんと巨人に行くことはできませんでした。後に知ったのですが、森さんは打撃コーチに張本(勲)を呼ぶつもりだったみたいです。森さんの巨人監督の話が消えてから張本に会うと、『あの話、私は引き受けるつもりだったよ。クロさんも(巨人に)来てくれるもんだと思っていた』と聞きましたから。76年に日本ハムから巨人に移籍した張本は、長嶋監督のもとで2年連続リーグ優勝に貢献。パ・リーグ時代は巨人に強い憧れを持っていた人で、卓越した打撃技術で3000本安打をマークした大打者でしたからね。現役引退後は指導者としてユニホームを着なかった。あの時、巨人の打撃コーチになっていれば……と思うことはありますね。当初は森さんを監督にしたかった巨人は、9月10日か11日に森監督の就任を正式に発表するはずだったみたいです。でも、OBや外部から反対の声が多かったので森さんは気持ちがなえたのでしょう。巨人が監督就任を発表する予定だった日に断りの連絡をしたようです」
余談になるが、森氏といえば西武監督時代の89年、4年連続日本一を逃すと、当時の堤義明オーナーから「(来年も監督を)やりたければ、どうぞ」と言われて続投すべきかどうかを迷っていた。
「あの時、森さんは川上さん(哲治=元巨人監督)に相談したんです。『君も思うことはあるだろうが、我慢しなさい』と言われたそうです。引き続き指揮を執ることを決めると、私に連絡が来ました。『黒、西武に戻ってきてくれ』と。それで90年からヘッドコーチになり、森さんと一緒に3年連続日本一になったのは、いい思い出です」
