【マーク・ボランの命日】T・レックス初来日、地震で中断した武道館公演と名曲『20センチュリー・ボーイ』の日本での録音秘話

写真拡大

1972年、初来日したT・レックスは日本でレコーディングを敢行し、名曲『20センチュリー・ボーイ』を生み出した。しかしその来日ツアーでは、あるアクシデントがマーク・ボランを舞台袖に引きこもらせる事態が起きていた。伝説のロック・スターを震え上がらせたものはなんと地震だったという。

【写真】単なる英訳ではなく、意訳されることで日本の洋楽史に残る記録的なヒットを記録した伝説的アルバム

当時洋楽を日本に広めようと尽力した東芝音楽工業の社員の証言とともに、ロックスターの命日を偲びたい。

両目の下にキラキラのグリッター

1971年、T・レックスがテレビ番組で披露したパフォーマンスは、その影響力の大きさから「グラム・ロック誕生の瞬間」と呼ばれている。

マーク・ボランがT・レックスの前身バンド、ティラノザウルス・レックスを結成したのは1967年。当初は6人組のエレクトリック・ロックバンドだったが、メンバーの意思をまとめる困難さと自分の音楽を自由にやりたいという想いから、バンドはヒッピー風のアコースティック・デュオへと路線変更した。

大きく舵を切ったティラノザウルス・レックスはまずまずの成功を収めたのだが、アメリカ進出に失敗したことから、マークは再びエレクトリック・ギターを手に取る。

それまでパートナーだったスティーヴ・ペレグリン・トゥックを解雇すると、新たにミッキー・フィンをパートナーに迎え、1970年の3月には勝負をかけた4thアルバム『ベアード・オブ・スターズ』をリリースした。

ところがアルバムは思い通りのヒットには至らず、マークは深く失望する。2年後に『ジギー・スターダスト』でスーパースターとなるデヴィッド・ボウイの音楽に直接触れたことで、マーク自身の感性も大きく変化していく。

バンド名を「T・レックス」と改め、心機一転して1970年9月にリリースした1stシングル『ライド・ア・ホワイト・スワン』は徐々に順位を上げていき、翌1971年1月には全英チャート2位まで上昇。

バンドは音楽面だけでなく、見た目においても派手な衣装で着飾ったり、化粧をしたりと、少しずつ変化していった。そんな時に舞い込んだのが、英BBCの人気音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』への出演だった。

1971年3月24日、生放送本番のステージに現れたマーク・ボランは、サテンのスーツを身にまとい、両目の下にキラキラのグリッター(ラメ)を装飾していた。メイクを施したのは、ファッション誌の編集者だったマネージャーの妻といわれている。

グリッター効果は抜群だった。この日歌ったのは2月にリリースされ、バンドにとって初の全英チャート1位をもたらした2ndシングル『ホット・ラヴ』。マークの姿が生放送でイギリス中のテレビに映し出されると、多くの若者たちが衝撃を受けた。

それまで局所的なムーブメントに過ぎなかったグラム・ロックは、この放送をきっかけに全国へと広まっていく。最先端の若者文化の震源地は、アメリカ西海岸から再びロンドンに戻ったのだ。

音楽やファッションだけでなく、思想、SF、世紀末感、ポップアート、30~50年代のハリウッド女優のイメージなどが融合したこのスタイリッシュなうねりは、ロキシー・ミュージック、ゲイリー・グリッター、スージー・クアトロ、スレイド、スウィートらを登場させた。アメリカではニューヨーク・ドールズがデビュー。あのエルトン・ジョンでさえグラム・ファッションに傾倒していたほどだ。

マーク・ボランはグラム・ロックを牽引するスーパー・スターとしての地位を確立し、半年後の1971年9月にリリースされた2ndアルバム『電気の武者(Electric Warrior)』で全英アルバムチャート1位を獲得した。

ビートルズの後を継ぐアイドル

1968年の秋に、東芝音楽工業の洋楽部に配属された新入社員の石坂敬一(のちのユニバーサルミュージックやワーナーミュージック・ジャパンのCEO)は、アシスタント・ディレクターとして仕事を始めた時、まずは印象に残る日本語のタイトル、邦題を付けることを強く意識した。

「日本の洋楽を確立しなければ」という気持ちが強かった石坂は、英語を日本語に訳すだけではなく、“より魅力的な日本語”に変換することを心掛けた。最初の頃はオリジナルのタイトルを漢字にすることで、メディアの関心をひく方法を試みている。

石坂はその後、ピンク・フロイドの『A Saucerful of Secrets』というアルバムに、『神秘』と名付けて確かな手応えをつかんだ。そこで1970年に発表されたアルバム『Atom Heart Mother』を『原子心母』としたところ、日本の洋楽史に残る記録的なヒットとなり、漢字による邦題で大成功を収めた。

1971年にイギリスで流行り始めていたT・レックスのアルバム『Electric Warrior』を担当した石坂は、ギターを持ったマーク・ボランがかっこ良くシルエットで写っているジャケットを見て、『電気の武士』という邦題のタイトルを思いついた。しかし、語呂も響きもいまひとつと感じたので、それを『電気の武者』にしてみたら「これだ!」という気持ちになり、売り込みにも力が入ったという。

T・レックスを売るにあたっては「グラム・ロック」という言葉を打ち出し、レコード会社の壁を超えてRCAのデヴィッド・ボウイと一緒にキャンペーンを行った。そこにCBS・ソニーのモット・ザ・フープルとポリドールのスレイド、さらに東芝EMIのロキシー・ミュージックも加わった。

当時は日本の洋楽を盛り上げるべく、各社の担当ディレクターたちが互いに情報交換を行いながらプロモーションに励んでいた。さらに石坂は日本のトップアーティストである加藤和彦から協力を得ることができた。加藤はテレビで「毎日聴いて、はまっています」と、T・レックスの「ゲット・イット・オン」を紹介してくれたのだ。

T・レックスのマーク・ボランは石坂から見ると、ファッションとヴィジュアルが音楽と同等のものとなった新しい時代のロック・スターだった。彼らは日本でもすぐに人気に火が点いて、ビートルズの後を継ぐアイドルとして雑誌で取り上げられるようになった。

映画『20世紀少年』

『電気の武者』がリリースされてからおよそ1年後、1972年11月にT・レックス初来日することが決まった。11月28日の日本武道館で初日の幕が開けて、翌日は愛知県体育館で公演が行われたが、いずれも盛況だった。12月1日の大阪公演は『ゲット・イット・オン』を30分も演奏するほど絶好調で、バンドは乗りまくっていた。

「新曲を作ったのでレコーディングをしたい」

マーク・ボランが滞在中に急にそう言い出したのは、東京に戻っていた12月3日のことだ。

石坂はただちに赤坂の溜池にある東芝EMIの第1スタジオを用意し、その日の午後からT・レックスのレコーディングが始まった。自伝『我がロック革命 それはビートルズから始まった』のなかで、石坂がその時の様子をこう描いている。

黒いコットンのシャツに黒いサテンの衣装で決めたマーク・ボランは一歩スタジオに入ると、脇目もふらずに一心不乱に作業を続けている。日本人だと、録っては休み、録っては休みを繰り返すことが多いが、マーク・ボランは周りに関係なくドンドン進めていった。(中略) 作業は午後3時から夜中の1時まで、全部で10時間ぐらいだったと思う。なまじ口を出すとうるさそうだから、自由にやらせておけばいいかなと思い、傍観していた。

このセッションでは、『20センチュリー・ボーイ』『エレクトリック・スリム』『ストリート・ブラック』の3曲が録音された。

こうして実に快調だった来日公演だったが、12月4日に最後の武道館公演が始まった時、予想外のアクシデントが発生する。震度4の地震が起きたのである。

経験したことがない揺れに驚いたマーク・ボランは、「地面が揺れる」と恐れおののいて、演奏を中断して楽屋に引っ込んでしまった。そこで説得役を買って出たのは、担当ディレクターの石坂だった。

「ステージで演奏をやってくれ」と頼んだら、“I'm Marc Bolan!”と一言。一瞬、意味がわからなかったが、「オレはマーク・ボラン様だ。なんでこんな地震の時にステージに出なきゃいけないんだ」という意味かなと理解した。結局は歌ってくれたけど、説得するまでが大変だった。そのためか、ステージはわずか1時間で終わってしまい、アンコールを求めお客さんは不満げだった。

その日は地震に水をさされて、まったく盛り上がりに欠けるライヴとなってしまった。まさに好事魔多しである。

日本でレコーディングされた『20センチュリー・ボーイ』は、翌73年3月にシングルとして無事にリリース。T・レックスに関してはやれるだけのことやっていたので、石坂は原題のままいくことに決めた。だが、発売しただけでかなりのヒットになった。

この曲は、1977年にマーク・ボランが交通事故で亡くなった14年後にリーバイスのCMに使われて、1991年の全英トップ20にランクインした。

さらに21世紀になってからも、T・レックスのヒット曲とともにマーク・ボランを描いたミュージカルのタイトルにもなった。日本では映画『20世紀少年』のテーマ・ソングとして使われたことで、新しい世代の間でも有名になった。

文/佐藤剛、佐藤輝、中野充浩