関東大震災から2026年9月1日で103年。

世界有数の大都市である東京を襲った未曾有の地震が起こる前から「もし大震災がきたら、どうする気なのか」、そう叫び続けた男性がいました。

ただ一人、警鐘を鳴らし続けた男性の名は、畠山一清(はたけやま・いっせい)。

金沢市出身で、ポンプなどを手掛けるメーカー「荏原製作所」を世界企業に育て上げた実業家です。

「予算がない」の一点張り--動かぬ役所と、動き出した一人の男

大正時代の東京。200万の市民の命をつなぐ水道は、たった1本の水路に頼っていました。

多摩川上流の羽村から延々40キロ。開渠で水を運ぶその堤防は、震災の前々年に起きた地震で数カ所が崩壊し、3日間も全市の水道が止まったという"いわくつき"のものでした。

畠山一清は、その危うさをいち早く見抜いていました。

時の東京市・永田青嵐市長をはじめ、内務省の技術担当官まで、関係者を説いて回りました。現場に集め、データを示し、訴え続けました。

賛成はする。しかし答えはいつも同じでした。「予算がない」

「もはや頼みにならず」--自ら動いた、一大奮発

役所への説得をついに諦めた畠山は、自ら行動に出ます。

旧神田上水の水路を活用して新宿の角筈(つのはず)まで通水し、ポンプで浄水場へ揚水する計画を自費で立案。ポンプ8台を提供し、補助的な予備施設を整えたのです。

「応急措置の寄付」と、彼はそれをさらりと表現しています。しかしその判断が、まもなく東京の命運を分けることになります。

予想は最悪の形で的中…水道全滅の東京を救った『自費の予備ポンプ』

1923年(大正12)9月1日、関東大震災が発生します。

予想どおり、羽村の水路はいたるところで決壊し、水道は完全に断水しました。街は火に包まれ、混乱が広がる中、畠山は時の東京市の水道局長の要請を受け、ただちに技術員を派遣します。

昼夜兼行の作業が始まりました。

そして翌2日の午後、東京市の水道は息を吹き返しました。火災の拡大は食い止められ、昔から大震災のあとに必ずつきものとされてきた疫病の発生も、未然に防ぐことができたのです。

世界が報じた「日本の水道界の優秀性」

この出来事は外国人記者の手によって広く世界に伝えられたといいます。

欧米諸国の水道関係者から、多くの賞賛と激励の電報や手紙が畠山のもとに届きました。誰も動かなかった場所で、一人が動いた。その結果が、国境を越えて響いたのです。

畠山はのちにこう振り返っています。「私の信念と技術によって、悪疫防止に成功し、ために幾十万人の生命を救うことができた。」

荏原製作所の歩みや畠山一清の言葉をまとめた書籍「熱と誠」では、これらのことを「ひそかによろこんでいる」と結んでいます。

インフラの防災対策や先見の明は、100年経った現代の私たちにも強い問いを投げかけています。