戦前も“炎上”が──投書で「流行歌」「ジャズ」も標的 専門家「密告が大きい」「ネガティブに傾くのはSNSと共通」『every.特集』
言論統制があった戦前、新聞やラジオへの「投書欄」には、国民が日々感じる疑問や意見が多く寄せられていました。やがて社会や検閲への影響力を持つようになり、統制を招くまでになりました。その背景を専門家に聞き、投書した人々の素顔を追いました。
■専門家「発信できるメディアが投書」

戦前の新聞。その片隅には、当時の人々の生活や思いが表れているコーナーがありました。読者からの投書を紹介する投書欄です。多くの新聞にこうしたコーナーがあり、実名だけでなく、ペンネームや匿名の投書もありました。
言論統制が存在した時代の、人々の“本音”が垣間見えるといいます。
宮崎公立大学の金子龍司講師
「唯一普通の人が意見を公に発信できるメディアが投書でした。いまのSNSみたいなことをやろうと思えば投書しかなかった」
ネットやSNSがない時代、新聞社やラジオ局への投書が、自分の考えを発信する手段でした。
■ラジオ局へ年間2.4万通以上

「一日中で一番俺の気を滅入らせるのは朝の駅の情景だ。来る電車も来る電車もすし詰めだ。何とかならないものだろうか」などのように、日々感じる疑問や意見が投書されていました。
ラジオ局宛てだけでも、年間2万4000通以上の投書がありました(昭和13年、日本放送協会「放送」より)。投書はやがて、一定の影響力を持つようになっていきます。
■妻の心情を歌った流行歌が批判の的に

当時の流行歌について、こんな投書がありました。「小学校1年生くらいの子どもが唄って通る。この唄を聞かない日はない」「私は恐ろしくなりました」
批判されていた歌は、1936年発売の「あゝそれなのに」。芸者出身の歌手で人気だった、美ち奴(みちやっこ)さんのヒット曲です。
会社帰りで帰宅の遅い夫を待つ 、妻の心情を歌った曲です。当時大ヒットしていました。人気とともに、批判の投書も増えていきます。
「奇怪な唄が5つ6つの子どもの口にまで唄われる」
「政府公認のラジオまで甘ったるい泣き声を放送させている」
「女生徒が『あゝそれなのにはうまいのよ』と笑いながら大声に合唱です」
女性の甘える言葉を子どもが口ずさむのが不快だと投書が相次ぎ、いまでいう“炎上”のような現象が起きてしまいます。
さらに新聞のコラムでは「俗悪な流行歌を駆逐しろの声は燎原(りょうげん)の火のように燃え盛ってきた」と、美ち奴さんの顔写真付きで炎上していることが記事になりました。投書から始まった美ち奴さんの曲をめぐる騒動は、拡大していきます。
■検閲を通らず、「吹き込み」やり直し

レコード会社に当時の記録が残されていました。東京・港区のテイチクエンタテインメントを訪ねました。同社の檜山直樹さんが、「当時の吹き込み報告書になります」と資料を取り出してくれました。
吹き込み報告書とは、レコーディングした曲や歌手などを記録した資料です。炎上した後に録音した、美ち奴さんの新曲「そんなの嫌い」の記録を見せてもらいました。
檜山直樹さん
「これが『そんなの嫌い』という楽曲。本来はこのまま出したかったんだと思うんですが、検閲を通っていないようで、もう一回吹き込み直している」
■「デモ貴方は」の歌詞で発売禁止も?

戦前、昭和9年からレコードなどには、国の審査である検閲がありました。検閲を通らないと発売が許されませんでした。その検閲に、美ち奴さんの曲が引っ掛かったというのです。
記録の隅には、「『デモ貴方は』をカットして吹き込んだものです。万一発禁の場合に出せるよう」という注意書きもありました。歌詞の「デモ貴方は」という言葉のために、発売禁止になる可能性があったといいます。
檜山さん
「(『デモ貴方』は)女性が男性にこびるときに使う呼び方だとか、何か強引な考え方があったのか、美ち奴さんが目を付けられて、『そんなの嫌い』に出てくる言葉を、さらに厳しく取り締まったのでは」
■新聞記事「投書が検閲に影響」

検閲を受けた3か月後。「流行歌への鐵槌 原盤破棄の命下る」として、検閲を所管していた内務省からレコードの製造中止を命じられます。美ち奴さんは歌手生命の危機に陥ります。
レコード会社によると、その後は政府が推進する「軍歌」を歌って活動することになったといいます。
当時の新聞でも「投書が検閲に影響を与えている」と伝えるなど、投書は無視できない力を持っていたのです。
■投書家は…裁縫が得意なまじめな主婦

どんな人たちが、どういう思いで投書をしていたのでしょうか。私たちは、実名で10通以上の投書をしていた女性を発見。当時の記録などをもとに、その住所を訪ねました。
応じてくれたのは、投書していた女性の息子だという男性です。「何年も前に他界しました」。母親は約30年前に亡くなり、投書のことは知らなかったそうです。
投書者の息子
「(母は)とにかく働き者。私が小さい頃は私の服を裁縫して私に着せていました」
男性の母親は、裁縫が得意なまじめな主婦だったといいます。
■主婦目線で、難局の乗り越え方を発信

投書について調べていると男性に伝えると、母親が晩年住んでいたという家に案内してくれました。生前使っていたというタンスには、新聞社などからのお礼の手紙が残されていました。
「ここにあるものははじめて見るんです」という投書者の息子。「(これは)文化放送。これは読売新聞からですね。夕刊の暮らしの案内の投稿を…。自分の考えを投書して大手の新聞社に認められたことは、うれしいこと。母にとっては」と言います。
男性の母親が投書を始めたのは1938年。日中戦争が始まり、コメの節約が話題になった頃でした。
「まだまだ精白米愛用者がたくさんおいでのことと思う」「お年寄りや御主人の嗜好(しこう)を誘導することも 結局は主婦の手腕一つ」。主婦目線で、戦時下を乗り越える術を発信していました。
■日中戦争の長期化で「質素な生活を」

その2年後、日中戦争が長期化し政府が贅沢を戒めるようになると、こんな投書がなされるように。
「今年は洋裁を学ぶ娘さんが特に多いという」
「外観を飾ることを急ぐ娘さん達が明日の日本の母性かと思うと私は不安に感じる」
古着を利用するなどして、質素な生活をするべきだと訴えていました。
■「敵性言語の排除」の投書も

人々の投書は、社会の動きとともに変わっていきました。戦争が激化すると、国の方針を後押しするようなものが目立ってきました。1941年、太平洋戦争が開戦。敵国だったアメリカの言語や文化の排除運動が始まります。
すると、「パーセントなんて なんの呪いかわからぬものを使用するより ×割×分の方がどれだけわかりやすいか」といった投書も見られるようになりました。やがて敵性言語の排除という、国の方針に従った投書が次々と現れました。
その矛先は、当時人気だった軽音楽へ。「ジャズバンドの乱痴気騒ぎをまねて コントラバスをグルグル回したり 暗くして1人づつスポットを当ててみたり 音楽は見世物ではない」。またも投書で炎上。その後、全面的にジャズバンドなどは禁止されました。
■投書が言論統制を加速させた背景

専門家は、投書が統制を加速させたと指摘します。
宮崎公立大学の金子講師
「投書というのは人を批判・密告するのが非常に大きい。その結果息苦しくなっていく、表現の枠が狭められていくところがあると思います」
「いまのSNSしかり、ネガティブな方向に傾くのは、時代を超えていまも共通していると思います」
(8月24日『news every.』より)