麻根重次『シュレディンガーの密室』インタビュー「選べなかったもうひとつの未来や人生を妄想してしまうリセット願望って、誰にでもあると思う」
タイトルは「シュレディンガーの猫」ならぬ、『シュレディンガーの密室』――。
著者・麻根重次氏は後に哲学や文学にも影響を与えたその物理学者の思考実験に、新作のアイデアを日々探す中で出会ったという。
「私は元々生物学を学んでいたんですけど、こういう科学系や哲学系のパラドックスを現実に落とし込むと何か面白いものが書けるんじゃないかと思ったのが、そもそもの始まりでした」
それはあえて要約すればある装置の中に閉じ込められた猫の生死に関する思考実験で、理論上、箱の中の猫が生きている確率と死んでいる確率は50%ずつだが、箱を開け、中を〈観測〉した瞬間、生死は確定する。しかもその観測がいつなされるかも結果に影響しかねないという、まさに主人公〈朝倉匠〉が直面している極限状況そのものだった。
〈腎臓移植用のドナーとして成育された少女、土砂崩れで孤立した研究所、硫化水素が充満する死の空間、連続殺人〉等々、何もかもが不穏極まりないクローズドサークルを舞台に、果たして彼は密室に閉じ込められた最愛の妹〈美羽〉の命を守りきれるのか――。本書はそんな〈〝究極の選択〟の物語〉でもある。
8年程前に市役所勤務の傍ら執筆を始め、敬愛する島田荘司氏が選者を務める新人賞を23年に受賞。受賞作『赤の女王の殺人』でも生物の進化に関する「赤の女王仮説」を用いるなど、幅広い切り口が印象的だ。
「用語が難し過ぎてもよくないし、かといって一般的過ぎても面白くないという難しさはあるんですけどね。
一見違う分野の概念を持ちこむことで従来にない新しいミステリーが書けるなら嬉しいし、私がかつて研究していた進化生物学も生き物の話なので、人間に応用できる話は多々あります」
都内でフリーライターとして働く匠が、信州・安曇野の山際に建つ〈蓮田医学生物学研究所〉を訪れたのは、ある夏の嵐の日のこと。母親が蒸発後、共に施設で育ち、10歳でこの研究所の所長〈菅家或人〉の養女となった美羽から、〈お兄ちゃんに大事な話がある〉とメールがあったからだ。
が、松本駅まで車で迎えに来てくれた妹は肝心な話は何もしないまま研究員の〈名波翔馬〉や〈天野聡太〉、ドイツ系英国人の〈ジュリエット・ピコ〉といった面々に彼を紹介し、中でも鋭いのか鈍いのか、今一つわかりにくい〈羽々崎朋哉〉は、後々本書の探偵役を務めることになる。
そんな矢先、匠は菅家の研究に出資する〈大門公一〉を囲んだ昼食会で大門社長の親戚だという謎の美少女〈霧谷円香〉に声をかけられ、あらぬことを頼まれる。〈わたしの生まれた秘密を、調べてくれませんか〉と。
やがて彼は円香が腎臓を患う大門のために金で買われたドナーと噂されていることや、ここが再生医療研究の最先端施設であること、摘出した臓器の延命技術を開発中のピコが硫化水素を用いていることを知る。
「私は謎の構築から創作を始めることが多いんですけど、今回はこの密室を成立させるのにまず毒ガスが必要で、即効性のあるガスとなると硫化水素だろうと。ではなぜ硫化水素がそこにあるのかというふうに話を膨らませた結果、ひとたびドアを開ければ外のガスが部屋中に充満して死に至る、この〈陰圧室〉仕様の密室を考えつくに至りました」
それが食後に体調を崩した円香と付き添った美羽がいる、1階の実験室Eだ。
奇しくも土砂崩れの影響で1階倉庫にあった硫化水素のボンベが壊れ、廊下にはガスが充満。しかもなだれ込んだ土砂が行く手を阻む中、豪雨によって通信手段までが絶たれた密室の中の密室に閉じ込められた美羽達は果たして無事なのか。〈もし中の二人が死んでいるなら〉〈一刻も早く、遺体の臓器を回収しなければならない〉という、これは何重にも入り組んだ罪と業と選択の物語なのだ。
価値観がひっくり返るような作品
興味深いのが、雨に閉ざされた研究所で主人公達が突き付けられる、〈突入〉か〈様子見〉かの決断だ。大門らは突入派、匠達は様子見派と各々の思惑で意見は割れたが、そもそもどちらが正解かなど、ドアを開けてみなければわからない。
「あの時、こうしていればと、選べなかったもうひとつの未来や人生を妄想してしまうリセット願望って、誰にでもあると思うんです。
特に誰かを救うには誰かの犠牲を必要とするという、この手のジレンマは物語の駆動力として物凄く有効で、究極の選択をしっかり落とし込むとこんなにも面白いミステリーが書けるのかと、夕木春央さんの『方舟』を読んで衝撃を受けたことも、実は大きかったと思う」
が、決断には当然責任が伴い、突入か、様子見かで探偵役共々心揺れる読者に、麻根氏はこれでもかというほどの逆転に次ぐ逆転劇を用意する。詳しくは作中に譲るが、本を閉じる最後の瞬間まで、油断は禁物だ。
「私自身、それまで読んだ本の中で最もビックリして感動したのがミステリーで、自分でもそういう価値観がひっくり返るような作品が書けたらなあといつも思う。実際は人をどう殺せば面白いかとか、罰当たりなことばかり考えているんですけどね(笑)。だからこそパズル的な構造を通じてどんなドラマを描くかが大事だと、今は思うようになりました」
自身は「突入しなきゃと思いつつ踏み出せないタイプです」と笑うが、怒涛の展開や謎解きもさることながら、観測や推理といった言葉の能動性に改めて気づかされた思いがする、発見の多い本格推理小説だ。
【プロフィール】
麻根重次(あさね・じゅうじ)/1986年長野市出身、安曇野市在住。信州大学理学部卒。同大学院修士課程修了。専攻は進化生物学。その後公務員に。8年ほど前から本格ミステリーを書き始め、2023年に『赤の女王の殺人』で島田荘司選第16回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し作家デビュー。著書に『千年のフーダニット』『スノウマンの葬列』。現在も市役所勤務の傍ら帰宅後に毎日2時間は執筆。麻根は筆名で「本当は10時まで朝寝したいから(笑)」。171㌢、74㌔、B型。
●構成/橋本紀子
※週刊ポスト2026年9月11日号
