町田いずみ浄苑の営業 長谷昭夫さん

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物事を「コスパ」で語る昨今。その考えは人間関係にも波及し、関わる相手を選び、面倒な縁は手放す方が生きやすい、という考え方も広がっている。
そんな時代の風潮と逆行するように生きているのが、長谷昭夫さん(84歳)。東京都内最大級の樹木葬「町田いずみ浄苑」の営業だ。

大手酒造メーカーの営業マンを40年以上勤め上げ、63歳で自ら区切りをつけた長谷さんは、その後、町田いずみ浄苑に移り、勤続21年、営業としては11年目を迎える。扱う商品は酒から墓へと変わっても、向き合い続けてきたものは変わっていないという。それは、一体何なのか。

◆紹介が紹介を呼ぶ、84歳の現場

長谷昭夫さんは、東京・町田市にある「町田いずみ浄苑」で樹木墓地の営業を担当している。行うのは、見学に訪れる客に墓地の説明や苑内の案内から契約。また、お参りに訪れる客の接客などがある。勤続年数は21年、営業歴は10年になる。

「出勤は週に4日。土日はやはり忙しいですね。特にお彼岸やお盆の時期は、お参りに来る方で一日中込み合っていますよ。そんななかで知った顔を見ると、ふと嬉しくなります」

その「知った顔」の多くは、自身が担当した契約者か、その紹介でつながった人たちだ。

「担当した人がご友人を紹介してくれて、その紹介された方が、今度また別の方を紹介してくれる。こんな風にあちらから、『お久しぶりです』と声をかけてくださる方も多いですね」

見学の客も、墓参りの客も、あとを絶たない。その足跡をたどっていくと、酒造メーカーの営業マンだった若き日に行き着く。

◆夜空を赤く染めた、幼き日の記憶

「夜なのに空が赤々としていて、そうとう燃えてるんだなと思いました」

長谷さんの故郷は石川県。太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)に、7人兄弟の3番目として生まれた。同年生まれには宮崎駿、坂本九、萩本欽一、岩下志麻らがいる。

まだ幼かったが当時の記憶は断片的に残っている。

「覚えているのは、米軍の飛行機が飛んできた時には、家の照明に布をかぶして消してたこと。農家なので、各家の地下に穴を掘って隠れ場所を作っていたことです。あとは、ある日の夜、富山方面の空が真っ赤になってるのを見たことですかね」

富山空襲は1945年8月1日の深夜に起こった。4歳の夏の出来事だ。そのほかには、招集された父を見送った記憶もあるという。幼いながらにも、無事に帰って来た時は安堵したと話す。

本人が「直接的な影響はなかった」と言うように、幼い長谷さんにとって戦争は身近でありながらも、どこか遠い出来事でもあった。

◆40年の営業人生で学んだ、人の縁の大切さ

商業高校を卒業後、長谷さんは大手酒造会社に入社した。

「修学旅行で東京に行ったけど合わないなと思ったんで、関西で就職しようと決めました。兄の知り合いの紹介で酒造会社に入社した後、それからずーっと40年以上営業をやってきました」

神戸を皮切りに、東京、大阪、福岡、名古屋などを転勤で訪れ、土地ごとの商習慣の違いを肌で感じてきたという。

「京都の人は建前を見極めないといけなかったし、名古屋では、どれだけ親しくなっても、ある日コロっと態度が変わったりするし、性格はみんな違いましたね」

長い営業人生には、いいことも悪いこともあった。

「いろんな人にお会いしてきましたし、お酒の席では、その人の本性が出てくることもあります。いい人もいれば、そうじゃない人もいました。それも含めて、仕事だったなと思いますね」

中でも印象に残っているのは、こんな出来事だ。

「東京にいた頃は、小売店への法人営業をしていました。その中で、ある取引先の本社の人と親しくなりました。その人が、お酒が好きということで食事に誘ったら、お礼に酒を扱っている店舗のデータをこっそりと渡してくれたんです。その後、一軒一軒回って、うちの商品を置いてもらいました。人にやさしくしていると、いいことがあるんだなあと思いました」