新しい友達をつくる必要は全くない…2000年前の哲学者が言い当てていた「幸せな老後をもたらす友達の種類」
※本稿は、小島和男『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。

■友達がいなくても問題ない
「友達、何人いる?」
この質問ほど、人を不安にさせるものはない。多ければ安心し、少なければ焦る。ゼロなら、何か自分に問題があるのではないかと疑い始める。
友達の数は、その人の社会的価値を測るバロメーターのように扱われている。友達が多い人は「コミュ力が高い」「人望がある」と評価され、少ない人は「暗い」「性格に問題がある」と見なされがちだ。学校では「みんな仲良く」と教えられ、友達ができないことは一種の失敗のように扱われる。
しかし、これは本当だろうか。友達が少ない人は、本当に劣った人間なのだろうか。結論から言えば、そんなことはない。友達がいないからといって、後ろめたく思う必要はまったくない。むしろ、友達の数で人の価値を測ろうとする発想自体が、根本的に間違っている。
■『友だち幻想』という名著
社会学者の菅野仁は『友だち幻想:人と人の〈つながり〉を考える』(2008)という本の中で、現代人が抱える友人関係の問題を鋭く分析している。菅野によれば、私たちは「友だち幻想」に囚われている。「誰とでも仲良くなれる」「私を丸ごと受け入れてくれる人がきっといる」という幻想だ。しかし、現実には、世の中には合わない人が必ずいる。全員と仲良くなることなど不可能だ。
菅野は、他者とは「自分とは違う考え方や感じ方をする人間」だと定義する。どんなに気の合う、信頼できる、心を許せる人間でも、やはり自分とは違う価値観や感じ方を持っている「異質性を持った他者である」と意識することが、幻想から抜け出す第一歩だと言う。価値観が100%共有できるのだとしたら、それはもはや他者ではない。自分そのものか、自分の分身だ。
菅野は、「同質性」を前提とするムラ的な共同体の作法から脱却し、「並存性」へと発想を転換することを提案する。つまり、「みんな同じ」であることを求めるのではなく、異なる価値観を持つ者同士が、最低限のルールを共有しながら共存することを目指すべきだと。
■「ムラ社会」の時代は終わった
かつての日本には、「ムラ社会」という言葉で表現されるような地域共同体が存在していた。食料や衣類をはじめ、生活に必要な物資を調達するためにも、仕事に就くにしても、いろいろな人たちの手を借りる必要があった。その時代では、地域の交際から締め出されてしまう「村八分」というペナルティを受けることは、死活問題だった。
しかし、社会は変わった。お金さえあれば、生きるために必要なサービスを受けることができるようになった。もはや、友達がいないと生きていけない時代ではない。それなのに、私たちは今でもムラ的な親しさの作法に縛られている。「友達がいないと恥ずかしい」という感覚は、その名残(なごり)だ。
この本が2008年に出版されてから、もう15年以上が経つ。しかし、そのメッセージは今でも色褪(いろあ)せていない。むしろ、SNSの普及によって「つながり」への強迫観念が強まった現代において、ますます重要性を増しているように思う。菅野先生は2016年にお亡くなりになったが、その著書『友だち幻想』は今でも多くの人に読まれ、救いとヒントを与え続けている。

■友達の有無は人間性とは無関係
友達がいないことを恥じる必要はない。そのことを、私はもっと強く言いたい。
友達ができるかどうかは、本人の努力だけでは決まらない。環境、タイミング、相性、運。さまざまな要因が絡み合っている。コミュニケーションが苦手な人もいれば、人混みが苦手な人もいる。一人でいることを好む人もいる。それは性格の問題であって、人間としての価値とは何の関係もない。
「友達が多い人は素晴らしい」という価値観は、外向的な性格を持つ人にとっては自然なものかもしれない。しかし、内向的な人にとっては、これは暴力的な価値観だ。自分の性格を否定されているように感じるからだ。
友達がいないことで後ろめたさを感じている人がいるなら、声を大にして言いたい。あなたは何も悪くない。友達がいないことは、あなたの欠点ではない。単に、あなたの生き方がそうなっているだけだ。
■人間ごときを友にしなくてもいい
ここで、少し挑発的なことを言いたい。そもそも、人間ごときを友とすることに、そこまでの価値があるのだろうか。
古代ギリシアの哲学者プラトンの『饗宴』に、ディオティマという巫女(みこ)が登場する。ディオティマはソクラテスに、愛(エロース)の奥義(おうぎ)について教える。ディオティマによれば、愛には段階がある。最初は美しい肉体への愛から始まる。しかし、そこで止まってはいけない。次に、美しい魂への愛へと上昇する。さらに、美しい知識への愛へと進む。そして最終的には、「美そのもの」、つまり美のイデアへと到達する。
これは「ディオティマの梯子(はしご)」とか「エロースの階梯(かいてい)」と呼ばれる有名な議論だ。ポイントは、特定の人間への愛に留まることは、まだ低い段階だということだ。本当に価値があるのは、個別の人間を超えた、普遍的な美や真理への愛なのだ。
つまり、プラトンに言わせれば、人間の友達に執着することは、まだ梯子の低い段階にいることを意味する。もっと高みを目指すべきなのである。
■哲学者セネカの具体的な提案
古代ローマの哲学者セネカの『人生の短さについて』には、もっと具体的な提案がある。セネカは、人生は三つの時間に分けられると言う。過去、現在、未来だ。現在は短く、瞬く間に流れていく。未来は不確実で、訪れることさえ保証されない。しかし、過去は変わることも消え去ることもなく、確かに存在している。だから、過去を見失うことなく、過去とともに生きていけば、人生には豊かな時間が積み上げられる。

そして、セネカは過去の偉人たちの書に学び、話し合い、身の上を相談し、人生の模範とせよ、と説く。ゼノンやピタゴラス、デモクリトス、アリストテレスといった人たちを、友として持てと。
現在に生きる人間であれば、多忙で会えないこともある。その人との交際の中で、散財したり、身の危険が生じたりすることもある。しかし、過去の偉人は常に門戸を開いてくれる。来訪者に何かしら得るものを与えてくれる。重要なことから些細なことまで何でも話し合え、毎日、身の上を相談できる。真実を問えば軽蔑せずに教えてくれ、お世辞抜きで本心から褒めてくれる。そして、人生の模範とすることができる。
セネカの言葉を借りれば、過去の偉人を守護者とする人間には、「なんという幸せ、なんという魅力的な老いが待ち受けていることか」。
■偉人を友とするのは本を友にすること
これは、2000年くらい前に書かれた言葉だ。しかし、今でも通用する。いや、今だからこそ、より強く響く。

現代人は、多忙に追われ、自分の時間を持てないでいる。SNSで他人の生活を眺め、比較し、焦る。そんな現代人にこそ、セネカの言葉は届くべきだ。過去の偉人を友とすれば、あなたが20歳であっても、その偉人たちの年月が付け加えられ、60歳にも、320歳にもなれる。そして、10歳のような吸収力を持つこともできる。古典を読むことで、あなたの人生は何倍にも拡張される。
過去の偉人を友とするとは、具体的にはどういうことか。本を読むことだ。本は、著者との対話だ。著者が何年もかけて考え抜いたことが、数時間で読める形にまとめられている。著者は読者のために、自分の知識と経験のエッセンスを惜しみなく提供してくれる。しかも、何度でも読み返せる。理解できなければ、同じページを何度でも読める。
現実の人間相手なら、何度も同じ話を聞くのは気まずいが、本ならそんな遠慮は不要だ。しかも、本は裏切らない。本に悪口を言われることはない。本に嘘をつかれることもない。
■本を読むことで時空を超えられる
本は、いつでも同じ内容を、同じ言葉で伝えてくれる。気分によって態度が変わることもない。人間の友達は、いつか死ぬ。引っ越して離れ離れになることもある。喧嘩して絶交することもある。しかし、本は残る。絶版になっても、図書館にはある。電子書籍なら、物理的な劣化もない。
本を読むことで、私たちは時間と空間を超える。2000年前のセネカと対話し、古代ギリシアのプラトンと対話し、江戸時代の本居宣長(もとおり のりなが)と対話する。その人たちは現実には会えない人たちだが、本を通じて、その考えにふれることができる。これは、現実の友人関係では決して得られない体験だ。
本を友とする人生は、決して寂しいものではない。むしろ、人間関係の煩わしさから解放された、豊かな人生だ。
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小島 和男(こじま・かずお)
学習院大学文学部哲学科教授
1976年生まれ。博士(哲学)。専門は、古代ギリシア哲学、反出生主義、うどん。日本うどん学会理事を務め、研究対象の貴賤の無さを語る。著書に『プラトンの描いたソクラテス』(晃洋書房、2008年)、『反出生主義入門』(青土社、2024年)、翻訳書に『生まれてこないほうが良かった』(デイヴィッド・ベネター、田村宜義との共訳、すずさわ書店、2017年、新訂版2024年)などがある。
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(学習院大学文学部哲学科教授 小島 和男)
