「人生、終わったな」5歳で“心臓に病気”発覚、医者は「20歳まで生きられん」と…被爆二世の男性が語る、“原爆がすぐ隣にあった”子ども時代
被爆者の子どもを表す言葉、「被爆二世」。親の戦争体験を語り継ぐ平和運動の担い手というポジティブな文脈で登場することが多い一方、当事者の遺伝的影響や健康問題、差別への苦しみなどには光が当てられてこなかった。 なぜ被爆者の子どもについて語ることが“タブー視”されてきたのか?
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ジャーナリスト・小山美砂氏の著書『ルポ 被爆二世』(集英社新書)より一部を抜粋・再編集して、5歳の時に病院で「20歳までは生きられん」と告げられた被爆二世の男性について紹介する。(全4回の1回目/2回目に続く)

写真はイメージ ©tonkoAFLO/イメージマート
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「両親が被爆しました。だけど、2人とも原爆や戦争のことは一切話さなかった」
ABCC(編注:原爆傷害調査委員会の通称。被爆者が受けた放射線の医学的・生物学的な影響を調べるため、米大統領令によって1946年に設立された)の調査を受けたことがあるという被爆二世に出会った。
2021年夏、ある小さな集いでのことだ。知人同士で声をかけ合って、被爆二世としての体験や思いを語り合う場をもつというので、私も片隅で聞かせていただいた。
その人は淡々と話し始めた。
「両親が被爆しました。だけど、2人とも原爆や戦争のことは一切話さなかったので、よくわかりません」
「サンドイッチとコーヒーを出してくれるんですよ」ABCCの思い出
続いて語り始めたのはABCCのこと。その声はどんどんと活気付き、生き生きと弾んでいくようだった。
「学校にジープが迎えにきて、わけもわからんままにABCCへ連れていかれるんですよ。『なんでジープに乗れるの』って友達がうらやましがるから、僕も半分得意な気持ちだったですね。着くと、かまぼこみたいな変な建物でね、なんじゃここはって感じで。中では注射を打ったり検査はされるんだけど、サンドイッチとコーヒーを出してくれるんですよ。サンドイッチにはカラシがたっぷり入っていて、コーヒーにはミルクと砂糖を入れて飲みました。もう、ものすごいうまかったんです。ABCCには何回か連れていかれましたが、全然いやじゃありませんでした」
彼は、ABCC──現在の放影研が位置する広島市南区に暮らす阿部雅治さんだった。「かまぼこ」のようなアーチ型の建物の中で、彼は検査を受けたのだという。
「日本だって原爆を開発しようとしていたんだから…」ABCCの調査に不快感を示さなかったワケ
私にとっては、ABCCで検査を受けたと証言してくれる、初めての被爆二世だった。意外だったのは、懐かしく楽しい思い出として、その経験を語っていたことだ。改めてお話を聞かせていただくことにした。
「ABCCについて、特別何か思うことはないですよ。ただサンドイッチとコーヒーがうまかったなあ、っていうだけでね。ABCCの科学者は、命じられて調査しているわけでしょう。アメリカに対する憎しみも、中沢啓治先生ほどはないですねえ。日本だって原爆を開発しようとしていたんだから、同じことをしていた可能性はあるんじゃないんですか?」
2023年10月、久しぶりに再会した阿部さんは、やはりサンドイッチの話をする時には顔をほころばせつつ、淡々と当時を振り返った。彼自身も漫画家として活躍しているからだろう、自らの被爆体験をもとに『はだしのゲン』を描いた中沢啓治氏を引き合いに出しながら、「ABCCの調査に不快感はないのか」という質問に答えてくれた。
5歳の時に「この子は20歳までは生きられん」と宣告され…
阿部さんがうまれたのは終戦から9年後の1954年だ。幼少の頃に住んでいた長屋の家賃が、3400円前後の時代だった。
親戚には被爆者が多く、小さい頃から葬式が多いと感じていた。ケロイドを負った人が何人もいた。首とあごの皮膚がくっついている姿は怖かったが、「何も言うちゃいけんで」という母の言いつけを守り、じっと耐えた。かわいがってくれていたお姉さんの1人は、白血病のため20歳で死去。両親も被爆者であろうことは、なんとなくわかっていた。
母・洋子さんの両親──つまり、阿部さんの母方の祖父母は被爆死し、母は孤児になって引き取られたのだと、親戚がこっそり教えてくれた。
原爆は、すぐ隣にあった。しかし、自分との関わりを意識したことはなかったという。
「この子は20歳までは生きられん」
そう告げられたのは5歳の時だ。風邪で受診した病院で「心臓の音が違う」と言われて調べたところ、心臓の壁に1センチ大の穴が3つも開いていた。小学校に入学しても、体育はダメ、遠足もダメ、水泳も駆け足もしてはならないと命じられた。
「人生、終わったなあ」深刻な健康状態だったが…
「今の医学では治せません」とも言われる中、阿部さんは「人生、終わったなあ」と、幼心に感じていた。
みんなと一緒に走りたい、遠足だって行ってみたい──。ABCCのジープが迎えにきたのは、その頃だったように思う。
衣服を脱ぎ、ひんやりと冷たい器材を胸に当てられた。子どもなら泣いて嫌がる注射も打った。それでもつらいと感じなかったのは、病気のために「検査慣れ」していたせいかもしれない。サンドイッチとコーヒー、さらに施設内にあった木馬のおもちゃで遊び、嫌な気分になることもなく何度か通った。
「お茶づけと漬物が庶民の食事、という時代ですからねえ。こんなうまいもんがあるんかって、それはそれはうれしかったんですよ。僕はそれにつられちゃったんだろうね」
阿部さんの笑顔は屈託ないが、健康状態は深刻だった。10歳の時、執刀医が見つかって手術を受けることになると、母は親戚や近所から必死に血液を集めて回った。彼女も同じO型だったが、小柄な体形を理由に、輸血は医師に止められたのだ。
症例の少ない難しい手術で、成功したのは奇跡と言われた
症例の少ない難しい手術で、成功したのは奇跡と言われた。その後の人生は、幸運にも与えられたものだと捉えている。
中学生の時に漫画家を志し、書店勤務を経てメジャーデビュー。成人後は胃潰瘍や十二指腸潰瘍、腸閉塞など、7年ごとに入院する健康状態に追い込まれた。
とはいえ、病と原爆とを、結び付けて考えたことはないという。「被爆二世」という意識も、それほど強くはない。なぜ実名でのインタビューに応じてくれたのか聞くと、「差別も何も怖くないですから。だって、する方が悪いんですからね」と、事もなげに言ってのける。何事も現実的かつ冷静に、ものを考える人なのだろうという印象を受けた。
ただ、自分が受けたABCCの検査内容や両親の「原爆体験」については、関心があるようだった。
「できることなら、知りたいですよね」
「父は『特攻隊の生き残り』だとも話していましたが、うそをついていたのでしょうね」
考えられる手段は、2つあった。1つは、ABCCの後身にあたる放影研に、保管されているカルテを請求すること。もう1つは、広島市に被爆者健康手帳の申請書類を開示するよう、求めることだ。
両親が手帳をもっていたのなら、当時の書類が残っている可能性が高い。いずれも遺族や本人ならば請求できると阿部さんに伝えると、彼はほとんど間を置かずに問い合わせた。
広島市からは、すぐに応答があった。両親とも手帳を取得していたようで、父が1962年4月30日に、母が1960年5月27日に提出した申請書が残されており、私にも写しを見せてくれた。
どちらも手書きで、かすれていたり文字が崩れたりしている部分が、多々あった。つぶさに読み取ることはできなかったが、わかる範囲では次の通りだ。
父の迪夫さんは、爆心地から南東に約2.5キロ離れた出汐町(現・南区)にいた。「被爆当時の状況」を記した欄には、「旧陸軍電信隊正面●の方を歩いて居た。丁度建物の影になって居るので直射は受けませんでした」(●は不鮮明で読み取れなかった部分、以下同)とある。
「父は『特攻隊の生き残り』だとも話していましたが、うそをついていたのでしょうね……」
洋子さんの両親は被爆死し、遺骨さえも見つかっていない
書類の文字をなぞりながら、阿部さんは言う。
そして母の洋子さんは、西に約2.5キロの己斐中本町(現・西区)にいた。走り書きのような筆跡で、「当時は横川町に居住していたが被爆4、5月前強制的に●●に避難しろとの命令により己斐中本に避難した際に被爆」とある。
先述の通り、洋子さんの両親は被爆死し、遺骨さえも見つかっていない。実家があったのは横川町(現・西区)ではなく弥生町(現・中区)と聞いており、『広島原爆戦災誌』(広島市、1971年)によると、家屋はすべて「全壊」し、人的被害としては39%が即死、44%が負傷した。
「地区によっては助かった人もあったが、殆んどは死亡した。家屋が倒壊し、道路がふさがれてしまったため、逃げおくれた者は、火炎につつまれて焼け死んだのである」とあるが、祖父母が実家にいたのか、洋子さんとともに「避難」していたのかは、書類からは何もわからない。それでも開示された資料は、阿部さんの両親が生き延びた原爆を知る手がかりをくれた。
〈「日本も憎いですよ」両親が広島で被爆→5歳で“先天的な心臓病”が発覚した被爆二世の男性が明かす、それでも“家族の原爆体験”と向き合うワケ〉へ続く
(小山 美砂/Webオリジナル(外部転載))
