「取締役→月収10万円台」へ転落危機…「再就活」でどん底から這い上がった56歳を救った"妻のアドバイス"

■60〜69歳就業率「56.1%」が物語ること
定年後や再雇用終了後、65歳以上になっても働き続ける人が増えている。
2025年の60〜69歳の就業率は56.1%、70〜74歳も36.7%に達している(総務省労働力調査)。働く理由は人それぞれだが、年金以外の収入の確保や社会との関わりを維持するといったものが挙げられるだろう。
一方で現在のビジネス環境は、AIを筆頭にしたテクノロジーの発達やビジネスモデルの盛衰に直面し、培ったスキルの陳腐化や学び直しによる知識の修得が求められつつある。
働く期間が長くなる中で、今の仕事のままでよいのか、転職すべきなのか、あるいは家族との生活を優先するべきか。今後のキャリアに悩む中高年層も少なくない。
「中高年の危機」とも呼ばれるが、その危機に直面し、悪戦苦闘しながら自分なりの働き方、生き方を見出した人もいる。彼らはどのようなプロセスをたどったのか。
■大手メーカー子会社に入社し、33歳で転職
現在、スタッフサービス・エンジニアリング(SSE)の派遣エンジニアとして働く平岡和晶さん(61歳)は大学では化学を専攻し、卒業後、大手電機メーカーの計測評価関連の子会社に入社した。
実験が大好きで製品が設計通りの性能や安全性を発揮するかを検証する実験評価の仕事に没頭した。
だが、33歳で転職することになる。きっかけは「上司との人間関係」だった。
上司の課長は親会社の人事で入れ替わるため、業務に精通していない。成果を上げようとできもしない仕事を受注して平岡さんとたびたび衝突した。
その後、社内の開発の業務にも携わったが、会社と取引のある実験装置の開発と実験評価を行う会社から誘われ、その話に乗った。
とはいっても従業員10人弱の小さな会社。不安もあったが「創業30年と歴史があり、好きな実験評価の仕事もできるし、何より自分が必要とされている会社に行くことが幸せだと思いました」と語る。
入社後は仕事に邁進し、2年後には実験評価部門の責任者として取締役にも抜擢され、研究所の所長も務めるなど重責を担いつつ社業の発展に尽力した。平岡さんは「ずっと仕事第一の人生で“仕事の虫”でした」と言う。
その間に結婚し、子どもにも恵まれ、ローンで自宅マンションも購入した。
■56歳で人生最大のピンチ到来
ところが20年以上勤務し、順風満帆と思われた会社人生が56歳のときに突然終止符を打つ。同族企業の経営者と経営の方針を巡って対立し、退職することになった。
どんないきさつがあったのか。
「実験装置が売れなくなり、実験評価部門が収益をカバーしていた流れの中、コロナ禍の影響で“装置”の販売不振がさらに悪化しました。それでも経営者は新しい人を入れて開発をやめようとしない。『私が作っても売れない、開発を抑えるべきだ』と強く進言しても聞き入れてくれません。その矢先に私が事業でミスをしたのですが、そのミスが気に入らない経営者と激しくぶつかり、もう辞めるしかないと思い、辞めますと言い放ちました」
実は方針の違いによる衝突は4年前から顕在化しており、会社に行くのも気持ちが重く、転職しても年収が下がることなどを悩んでいた。ミスが決定打になったとはいえ、役員としてのプライドもあり、我慢に我慢を重ねた末の「56歳の決断」で、いたしかたなかったともいえる。

■役員報酬年収800万円がなくなった
しかし、その決断の代償は思いのほか大きかった。辞職により、当然のことながら役員報酬の年収800万円はなくなった。
しかも、退職後の再就職先のあてはなかった。退職したのは2021年5月で、コロナ不況のど真ん中。失業手当が支給されるまでの3カ月間は給与が支給されたが、支給が終わるのは6カ月後の翌年の3月。平岡さんはこれまで経験しなかった再就職活動の厳しい現実と向き合うことになった。
当初、50社以上に応募したが、ほとんど反応がなかった。
「飲食業界など自分のキャリアとは違う職種にも応募しましたが、断りのメールどころか返事が全然返ってこない。失礼な会社だなと思いました」
年齢の壁なのか、バブル世代は使えないというレッテルなのか、前職とのミスマッチなのかわからないが、採用可否の返事すら寄越さないのはあまりにも理不尽だろう。
それでも数社は面接にこぎつけたが、給与待遇があまりに低すぎた。面接を受けたうちのひとつ、プラスチック加工の化学系メーカー人事担当者とのやりとりは今も鮮明に頭に残っている。
「前職のときのISO(国際標準化機構)の品質規格認証の内部監査員の資格が目に留めていただきました。『人員に空きがあるからどうですか』と言われ、『給与はいくらですか』と聞くと、手取りで月19万円。これではやっていけないと思いましたし、勤務地も自宅から遠く、暑い工事現場のようなところで、通うのは無理なので断りました」
■「月収10万円台」の仕事ばかり
前職の手取り月収50万円前後という報酬に比べれば半分以下だ。もちろん同程度の報酬を望んでいるわけはないものの、額面月30万円を最低線に置いていた。それをはるかに下回る額の提示に心底がっかりしたという。
打ちのめされたが、幸い妻も仕事をしており、ただちに生活が困窮するわけではない。ここは粘り強く職探しをしようと心に決めた。
しかし、「現実」は厳しかった。業種を限定せず応募し、警備会社から誘いがあったものの、「55歳以上は契約社員となり月15万円」と平然と言われた。ハローワーク経由で前職での経験を買われ、地元の浄水処理会社から採用の打診もあったが、ここも給与欄には「19万円」という非情な数字が書かれていた。
再就職活動の過酷さに平岡さんは途方に暮れた。

「自分は使えない人間なのか、もうだめかもしれない。そんな思いや不安、焦りが募りました。心労も重なったのでしょう。体重が10キロも減りました」
こんな状況に置かれると自暴自棄になってもおかしくないが、平岡さんはへこたれなかった。毎日、朝夕は妻の勤務先に車で送迎し、その間に就職活動を行うという規則正しい生活を心がけた。
今の自分が使い物にならないのであれば資格を取ろうと考え、3級FP(ファイナンシャル・プランニング)技能士や上級救命士などの9つもの資格を取得した。そして保険業界やハウスクリーニング業など未知の業種にも応募した。
■どん底から這い上がれたワケ
こうして平岡さんが少しでも上へ這い上がろうともがき、前を向くことできたのはなぜか。
聞けば、「少林寺拳法のおかげ」だという。大学時代の4年間、サークル活動で真剣に打ち込み、36歳で復帰。46歳で地元の少林寺拳法連盟の支部長に就いた。ずっと道場で子どもたちにボランティアで指導をしてきたのだ。
「生徒は約50人ですが、土日も含めて週4日、夕方に指導しています。子どもたちに教え、日々成長していく姿を見るのがたまらなく楽しい。子どもから教えられることもありますし、皆かわいくてしょうがないです。癒やしにもなりましたが、いつの頃からか、(少林寺の指導が)自分の生きがいでもあるということに気づきました。子どもたちに『先生は職を持っていない』とも言えませんし、まだまだ俺も頑張るぞという励みにもなりました」
少林寺拳法は“人づくりの行”と言われる。平岡さんは人生最大のピンチに見舞われる中、その原点に立ち戻ったのだ。

もうひとつ支えがあった。それは妻の助言だった。
■妻は言った。「あなたの生きがいは何なの」
再就職探しで悩んでいたとき、ふと、「あなたの生きがいは何なの」と聞かれた。そして「あなたから少林寺拳法を取ったら何が残るの、何も残んないじゃない、仕事もないから少林寺辞めますとなったら、あなたおかしくなっちゃうよ」と言われ、背中を押されるとともに、自分の生きがいや強みについて改めて気づかされたという。
だが、タイムリミットは確実に近づいていた。失業手当支給の最終月を翌月に控え、さすがに再就職はあきらめかというムードが家中に色濃く漂っていた。観念した平岡さんは妻に「4月からアルバイトでもするから」と伝えた。すると、妻は毅然とした顔でこう言ったそうだ。
「何言っているの、よく考えてみなさいよ。あなたはスキルを持っているのに、どうしてそれを使わないの」
ハッとした平岡さん。心の中に少しだけ残っていた小さな炎が再び燃え上がった。
「スキルを登録して派遣先を探してくれる派遣会社を通じて探してもらったんです。こうした派遣会社の存在は知っていましたが、仕組みをよく理解しておらず、躊躇していたんです。登録後ほどなくしてISOの内部監査の仕事が見つかり、派遣エンジニアの仕事が決まりました。その知らせを受け、本当にうれしくて……涙が出て、妻と抱き合って喜びました」
■再就活乗り越え働き方や生き方が変わった
前職で培った主流の仕事ではないが、当時、偶然必要に迫られて担当していたスキルが新たな仕事につながった。
現在は常用型派遣(無期雇用派遣)社員として、インフラ関連企業の品質管理部門でマネジメント業務や品質規格の運用などの内部監査の仕事をしている。
今年、同社への勤務は5年目を迎えるが、定時に帰社できるほか、3年目からは週2日、在宅勤務もできるようになった。給与も基準としていた月30万円をキープしており、毎年昇給している。
自宅ローンの返済が残っており、決して生活が楽になったとはいえない。それでも、厳しい再就職活動を乗り越えた平岡さんの仕事や生き方に対する考え方は明らかに変わった。
「自分を犠牲にしてまで気の進まない仕事を一生懸命にやっても潰れてしまったらおしまいです。大事なことは今、自分にとって大切なのは何かを考えることです。仕事なのか、家庭なのか、あるいは余暇を楽しむことなのか、やりたいことの優先順位をつけること。仕事が一番、金を稼ぐことだと思ったら仕事を優先してもいいし、家族との時間を長く過ごしたいと思えばそちらを優先する。人それぞれだと思いますが、今の私は少林寺拳法の指導員と家族との時間を人生の2大メインに置いて、その生活を維持するために働いています」
「少林寺」と「家族」という仕事とはまったく別の要素で命拾いした平岡さんはそう言って、笑った。
新しい職場では新たな品質規格の修得のための勉強も欠かせないが、やりがいを持って働くことができている。
さらに生成AIの資格試験であるAIパスポートの取得も目指している。
「仕事は可能であれば70歳まで続けられたら最高ですが、体力・気力が続く限り働きたいです」
還暦直前の再就職活動でどん底を知って生まれ変わった平岡さんはこれからの人生を味わい尽くすつもりだ。
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溝上 憲文(みぞうえ・のりふみ)
人事ジャーナリスト
1958年、鹿児島県生まれ。明治大学卒。月刊誌、週刊誌記者などを経て、独立。経営、人事、雇用、賃金、年金問題を中心テーマとして活躍。著書に『人事部はここを見ている!』など。
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(人事ジャーナリスト 溝上 憲文)
