生田技師とレイ・パスティン氏

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―[ヒット商品&サービス「はじまりの物語」]―

何事にも始まりがある。そしてそこには、今では想像もつかない状況や苦労も。例えば「ビーチサンダル」。
夏のレジャーに必須のアイテムであるばかりか、「ちょっとそこまで」の足元を支える、生活に欠かせない履物だ。

しかし、意外にもハワイやグアムなど、マリンレジャーの本場で生まれたわけではない。誕生の背景には、ある日本企業の研究と工夫があった。

その開発秘話を、内外ゴム株式会社の営業担当である鵜澤泰裕氏に聞いた。

◆ビーチサンダルの素材はひとりの技師が生み出した

現在のビーチサンダルといえば、EVAと呼ばれる樹脂素材やゴムが一般的。その元祖となる製品には、日本の「内外ゴム株式会社」の素材が使われている。

「弊社の技師だった生田庄太郎が、それまでのゴムよりも軽くて弾力性のある素材を求め、何日もかけて研究・開発したものです。独立した空洞が外部と繋がらずに無数に入っていて『独立気泡スポンジゴム』と名付けられ、特許にも認定されました」(鵜澤泰裕氏、以下同じ)

この新素材こそが、ビーチサンダル誕生の大きな鍵となった。軽さと弾力性はゴムの中に空洞を作ることで実現できるが、通常のスポンジ状では水分を吸収してしまう。空洞を「独立気泡」にした点が画期的な発明だったのだ。実のところ、開発は戦時中に受けたある要請から始まっていたという。

「戦時中、日本軍が撃墜した米軍爆撃機を調査した際、燃料タンクから未知のゴム素材が見つかったそうです。生田は軍部から、同様の素材を早急に作るよう要請を受けていました」

生田技師は、軍事技術として生まれた発明をなんとか生活用品に役立てられないかと、活路を探っていたのである。

◆素材とデザイン、奇跡の出会い

発明が世界初のビーチサンダルとして結実するには、もう一人のキーパーソンが必要だった。アメリカ人の工業デザイナー、レイ・パスティン氏である。パスティン氏は戦後の産業復興を支援するために来日した専門家の一人だった。

「来日したパスティン氏は、日本の草履や下駄を見て大きな衝撃を受けたそうです。足の指で鼻緒を挟み、甲を覆うものがない構造は、当時のアメリカには存在しないものでした」

同氏は約3年をかけ、草履をモチーフにした「濡れてもすぐに乾き、海辺でも快適に使えるゴム製の履物」を考案した。しかし、製品化への道のりは険しかったという。

「戦後間もない時期、米国民への反発から門前払いが続いたといいます。半年以上が過ぎ、ようやく弊社へ足を運んでいただきました。生田が『ゴムで草履を作りたい』という依頼を了承した時のパスティン氏の喜びようは、言葉では表せないほどだったと聞いています」

◆ついに「世界初のビーチサンダル」が誕生

パスティン氏が持ち込んだ原案は、左右が同じ形で底面もフラットな日本の草履に近いものだった。そこから左右の足の形に合わせ、かかと側を2mmほど高くすることで、歩きやすさを追求した。しかし、試作品が完成してもすぐには成功しなかった。

「当時のスポンジは製造の都合上、アンモニア臭が強く普段使いには向かないとされました。また、アメリカ人向けに開発をしましたが、それまで足の指で何かを挟む履物を知らなかったアメリカ人にとって、鼻緒は痛く邪魔な存在だったようなんです」

こうした意見をもとに微調整を繰り返し、ようやく商品として売り出せるものが完成。1955年に「ビーチウォーク」と名付けられた商品がアメリカへ輸出された。

「ポスターも使って大々的に広告したこともあって、発売の翌年には1か月で約10万足が売れるほど、瞬く間にヒットしました。当初の販売価格は1.95ドルで当時のレート(1ドル=360円)で計算すると702円ほどです」