蒲田駅と京急蒲田駅(東京都大田区)をつなぐ800メートルの鉄道新線に注目が集まっている。2つの駅をつなぎ、羽田空港に直結する「新空港線」(蒲蒲線)構想は、長年実現しないまま放置されてきた。その理由とは何か。ライターの昼間たかしさんが“幻の直結路線”に迫る――。
京急空港線の糀谷駅へ進入する、京急1000形1113編成(8次車)による羽田空港行きエアポート快特(写真=MaedaAkihiko/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■800mが埋められないJRと京急の溝

大田区は羽田空港を擁し、中心繁華街である蒲田は「東京の玄関口」として認識されている。しかし、この玄関口には致命的な欠陥がある。中心となるJR・東急蒲田駅は、羽田空港と鉄路で結ばれていないのだ。

羽田空港と鉄道で接続する京急蒲田駅と蒲田駅は、わずか800メートルしか離れていない。しかし、この800メートルが、70年以上にわたって埋まることのない溝となっている。乗客は今日も、重い荷物を引きずりながら10分の徒歩移動を強いられる。

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近道とは書いているけど、実際にはこの道が当たり前のルート。地下道くらいはあってもよいのではないかと思う - 筆者撮影

実は、かつてJRと京急が線路で結ばれていた時代があった。戦後、羽田空港を接収していたGHQは、物資輸送のために現在のJR線から分岐し京急と接続する線路を敷設していたのである。皮肉にも、占領軍のための貨物線として、蒲田と羽田は確かに「直結」していた。

しかし、この線路が旅客化されることはなく、接収解除後にあっさりと廃止された。以来、蒲田は「つながりそうでつながらない」空港玄関口であり続けている。

大田区の公式サイトより
大田区の公式サイトより

■戦前からあった幻の鉄道構想

羽田空港の歴史は、1930年に逓信省航空局が飛行場用地として土地を購入したことにはじまる。こうして建設された飛行場は「東京飛行場」として命名され、1931年8月31日に、日本航空輸送が、大連行きの一番機を飛ばしている。この時は乗客はおらず、会社は苦肉の策で松虫と鈴虫約6000匹を積み荷として運んだとされている。

その後、各新聞社などが格納庫を設置、次第に定期便は増加していった。とりわけ1932年に満州国建国後は、大陸との貨物需要が増大、1939年には空港敷地を拡張し、3本の滑走路が建設されている。

こうした中、将来の需要増を見越して、都心と連絡するための鉄道構想は早い段階で立ち上がっている。1931年3月には民間の羽田航空電鉄という会社が蒲田~穴守間を懸垂式モノレールで接続することを構想し、鉄道大臣に免許を申請している。

しかし、当時はモノレールが実績の少ない技術だったことに加えて、京急穴守線と競合することが問題となり、申請を却下されている。

そのまま、戦前に羽田空港に鉄道が建設されることはなかった。

■京急と一度だけつながっていた

戦後になりGHQは羽田空港を輸送路とするために、前述の国鉄と京急とを繋ぐ連絡線を建設。穴守線も稲荷橋~穴守間が休止となった上、線路の一部を接収され単線営業となった。

サンフランシスコ平和条約が締結された1952年以降、GHQによる接収は解除されたものの、一部は空港敷地になってしまったため、稲荷橋駅は位置を移動し、穴守稲荷駅として開業。終点として空港をのぞむ敷地外に羽田空港駅(現在の天空橋駅付近)が建設されることとなった。

この際に、輸送路として利用されていた蒲田駅~京急蒲田駅を繋ぐ線路も廃止・撤去されている。GHQは、接収した穴守線の軌間を狭軌に変更して利用していた。だから、現在の視点では、これを旅客化していれば……と考えるのだが、なぜそうならなかったかは資料がなくわからない。

さて、接収解除された羽田空港だが、当時予算が不足していた政府は、国家予算として誘導路およびエプロンの舗装費用のみを計上、ターミナルは民間出資の日本空港ビルデング株式会社による運営を実施するものとした。

こうして民間利用の再開準備が整うと、当然、都心とを繋ぐ交通機関が必要となってくる。しかし、当時は運賃も高額で多くの利用者が望めるものでもなかった。京浜観光開発(現・京急交通)なども及び腰であったため、日本空港ビルデングが中心となって各社に参加する形で、日本空港リムジン交通(現・東京空港交通)が設立され、空港と都心のホテルとを結ぶリムジンバスを運行し、乗客の足を確保することになった。

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現状、蒲田駅から羽田空港はバスのみ。路線バスでのんびり出かけるのもお手軽でよい - 筆者撮影

■路線バスだけが頼りだった時代

こうした経緯があり、蒲田は羽田空港最寄りの街でありながら、玄関口からは完全に外れてしまったのである。

しかし、その地位は次第に回復している。日本の空の玄関口として各国の飛行機が発着するようになると、羽田空港は東京の代表的な観光地の一つとして知られるようになっていく。

こうした見学者が来訪するために利用したのが、蒲田と空港とを結ぶ路線バスであった。

空港そのものが観光地となるというのは、今では想像しづらいが当時は庶民が乗ることもできない国際線が発着していることだけで価値があった。「読売新聞」1953年5月19日付朝刊では「羽田空港 見学に悲鳴」として一日最高4400人が来訪し、25人の保安員ではさばききれずに毎日6、700人は断っていると記している。

この空港見物に利用されるのが、蒲田駅だった。

当時の東京見物用のガイドブック『東京近郊レクリエーション案内』(朋文堂 1957年)をみると「国電大森駅及び蒲田駅からバス20分。京浜電車羽田空港駅下車 見学案内料一人20円」とある。

羽田空港駅から歩くのだから、京浜線でアクセスしてもよさそうだが、どのガイドも例外なく蒲田駅、あるいは大森駅からバスを利用することを薦めている。東京に不案内な人に「品川駅で京浜電車に乗り換えて~」と案内するのはハードルが高かったのだろう。

写真=時事通信フォト
蒲田駅周辺から羽田空港方面(2012年4月7日、東京都) - 写真=時事通信フォト

■モノレール開業の舞台裏、東京五輪と渋滞地獄

そんなバスでしかいけない羽田空港にモノレールが開業したのは1964年9月のことである。モノレールが求められた理由は、東京オリンピックを控えて需要が急増していながら、渋滞により、到着時間がまったく読めない空港になっていたことであった。

「読売新聞」1961年11月13日付朝刊の記事「遠すぎる羽田への道」では、第一京浜の渋滞が原因で、東京駅八重洲口から羽田空港までは1時間半から2時間程度が相場、最近はダイヤでは1時間5分と書いてある京浜バス(東京駅八重洲口~羽田空港)は2時間が当たり前、バスの遅延が原因で飛行機のダイヤも乱れていると報じている(当時は、飛行機が待ってくれたのだ)。

こうして建設された東京モノレールは、初期計画では新橋駅に乗り入れるものとされていた。しかし、計画路線上の運河を利用する事業者から猛烈な反対があったために、浜松町駅に隣接していた都営バス車庫跡地の払い下げを受けて、建設することになった。

これに対して、羽田空港の玄関という自負のあった蒲田では、早くから計画に反対する動きが起きている。新橋や浜松町周辺では事業者や住民が、モノレールの建設そのものに反対していたのに対して、蒲田の動静はまったく違った。

蒲田では、蒲田駅前商店街振興会を中心に、モノレールの出現を歓迎し、新橋・浜松町方面ではなく羽田空港~蒲田間に建設することを熱烈に要望したのである。折しも、蒲田では国電蒲田駅東口の駅ビル(現グランデュオ蒲田)を建設中。この駅ビルから、羽田空港までをモノレールで接続しようというものであった。

筆者撮影
京急蒲田駅前の商店街。両駅間を移動する人も多いためか人通りは絶えない。最近は飲食店が増えた - 筆者撮影

■実現しなかったモノレール延伸

モノレールは新橋駅との接続を予定していたのだから、まったく方向が違う蒲田への路線建設は荒唐無稽かと思いきや、そうでもなかった。日本高架電鉄では、当初からモノレールの多方面への延伸を計画していた。「読売新聞」1961年7月14日付朝刊では、新橋~羽田間の建設後に、羽田~横浜山下公園、横浜~熱海、新橋~千葉県五井への路線建設があると報じている。

しかし、これらの計画はまったく進展しなかった。東京オリンピックにあわせて開業した東京モノレールだが、料金は高額だった。開業当初の運賃は大人250円、子供130円(往復だと大人450円、子供230円)。当時の国鉄が11~14キロで運賃40円だったから、明らかに高額であった。それでいて、途中駅はなく、羽田空港利用者(あるいは見学者)の運賃収入は見込めなかった。

こうして開業早々低迷したことで、夢の延伸計画はまったく頓挫することになった。東京モノレールの経営が安定するのは、その後、1969年代後半になり、道路の交通渋滞に対して定時性が確保されている有益性が重視されるようになってからだった。

こうして、またも羽田空港の玄関口となることにしくじった蒲田だが、なおも羽田空港に直結する交通機関の夢は続いている。1971年には、商店街や東急、京急も参加する「蒲田地区開発促進懇話会」が立ち上げられているが、ここでも事業目的として、蒲田~羽田空港間のモノレール建設が挙げられている。

しかし、モノレール計画がまったく実現見通しが立たない中で生まれたのが、かつてGHQが行っていた、線路の接続による直通の実現であった。

■再び動き出した直通計画、1987年の地下鉄道構想

この計画が明らかになったのは、1987年。地元の大田区と東京都、東急、京急のほか、JR蒲田駅の駅ビルを経営する蒲田振興も加わった研究会でのものだった。

計画では、東急蒲田駅の地下に新鉄道は建設、東急目蒲線・池上線を京急蒲田駅から空港線に接続させるというものであった。

当時、羽田空港では沖合への拡張移転工事が始まっていた。さらに、大田区内では工場の移転が進んでおり、JR蒲田駅の西側では三菱自動車工場跡地の再開発が始まるなど都市改造が本格化していた。さらに、京急の羽田空港乗り入れ工事も予定されており(1988年より工事開始)、地下鉄道で一気に空港直結を目指すというのが、この計画であった。

ところがここでまた、事業は停滞を余儀なくされる。このために、まず大田区が確保を目指したのは地下に線路が通るJR蒲田駅東口の貨物ヤード跡地の確保であった。国鉄の精算のために売却されることになっていた、この土地を用いて「空の玄関口としてふさわしい街の顔」となる施設を建設することが、大田区の狙いであった(「朝日新聞」1987年3月7日付朝刊)。

■入札でつまずいた蒲田の再開発

ところが、1987年3月の入札で、このために大田区が設立した第三セクター「蒲田開発事業株式会社」(東急・NTTなどが参加)に敗れてしまう。落札した桃源社の入札価格1平方メートルあたり1361万円に対して、第三セクターは430万円で入札しており、土地価格の急激な高騰を完全に見誤っていたのである。

敗れた大田区は、落札した桃源社と交渉。その結果、1988年11月に、建設が決まった地上11階建て地下4階建てのビルの地下4階部分に鉄道施設を設置すること、将来、蒲田駅の東西を結ぶ新コンコースを建設する際に協力すること、将来の駅利用者の便を図るための駐輪場の設置することを記した覚書を交わした。

旧国鉄は桃源社に対して「2年以内の着工、5年以内の完工」を条件としており、地下鉄道もこの間に、工事負担を含めた目処がつくかが、この時点での焦点であった(「読売新聞」1988年11月5日付朝刊)。

しかし、新線建設工事はまったく、進まなかった。

それどころか、桃源社は1992年にビルを完工させたものの、バブル崩壊で景気が悪化、工事代金を払えずビルは施工業者の鹿島と銀行団に差し押さえられ競売に掛けられてしまう。

こうして、鹿島の関連会社所有となったビルの購入を持ちかけられたのが大田区であった。当時、大田区役所は蒲田駅と大森駅の中間にありアクセス不便、それが蒲田駅徒歩1分に移転できるのだ。

■区役所移転の裏にあったビルの秘密、地下に眠る鉄道構想

しかも魅力的なのは価格である。

桃源社は656億円で落札、さらに、ビル建設に総工費240億円の合計896億円をかけていた。これに対して、1993年、鹿島や銀行団の関連会社「ケイ・ビー・ケイ(KBK)」が競売で落札した価格は398億円。そして大田区に提示した価格は203億円であった。ピークの約4分の1どころか、1987年時点の土地代よりも安い価格で、鉄道施設を想定した工事まで済んでいるビルが手に入るのである(「朝日新聞」1995年12月8日付朝刊)。

こうして一部では反対意見もあったものの、大田区議会は購入の賛成を可決。1996年に大田区役所は移転した。こうした経緯もあり、大田区役所はバブルの時代がそのまま移転してきたかのような異色な外観や内装を持つ区役所となっている。しかも、上階には内装が簡素な部分もあり、次第に工事費が足りなくなったことも伺わせてくれる。

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バブル崩壊によって駅前の一等地に区役所ができてしまった大田区。結果的にはお得だったか - 筆者撮影
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現在は駐車場となっているが、将来の地下鉄用地として確保されている部分もあるという - 筆者撮影
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バブル真っ盛りに建築されただけあって、大田区役所はバブル仕様 - 筆者撮影

ここまでお膳立てが整えば、羽田空港直結も目前かと思いきや、まったく進展はしなかった。

2002年には、大田区が「大田区東西鉄道」の検討に着手していることが報じられ、ここで初めて蒲蒲線という言葉が浮上している(「日刊建設工業新聞」2002年4月19日付)。以降、毎年大田区には調査費が予算計上され調査が進められたが、計画は東急と京急を直結するのか、あるいは乗り換えであれば、どこに乗り換え駅を建設するのかという案が出ては消えている。

■京急が計画に消極的だった背景

この後の構想で特徴的なのは、京急の積極的な参加がまったく見られないことである。東急は、2010年代に入ると積極的に計画に参画する意欲を見せている(「朝日新聞」2011年11月16日付朝刊)。

ところが1980年代には研究会にも参加していた京急は、蒲蒲線にほとんど言及していない。これは、線路の軌間の異なる東急と接続すれば大規模な工事が必要になること、さらに、延伸工事によってターミナル乗り入れを果たした京急からすれば、ライバルが増えることになり容易に協力などできないのは明らかだ。

こうした中、2022年10月に大田区と東急は新たな第三セクター羽田エアポートライン株式会社を設立している。この会社の目的は「新空港線(蒲蒲線)整備事業(一期整備:矢口渡~京急蒲田間)の事業化に向け」たものとされている。

■直結しない蒲蒲線の行方

おわかりだろうか。現在、大田区では新空港線(蒲蒲線)と名付け、一期・二期による整備を実施するとしている。一期が東急蒲田駅と京急蒲田駅の接続。二期が京急との接続による羽田空港への直結である。

つまり、現状は多少なりとも進展のある両蒲田駅の接続する区間の工事を「新空港線(蒲蒲線)」と名付けている状況だ。そして、一期の部分も2025年4月に東急の営業構想と羽田エアポートラインの整備構想が認定されたばかり。具体的な都市計画も、これからとなる。「日本経済新聞」2025年1月18日によれば、東急は2038~2042年の開通を目指すとしている。

しかし、開通しても羽田空港には直結せず、京急蒲田駅で地下と地上での乗り換えが必要になる。現状、計画を推進する大田区などでは、それでも時間短縮になることを強調するが、その頃には完成しているJR東日本の新たな空港アクセス鉄道に比べて、どれほど優位性があるだろうか。

もはや、こうなると多少でも線路が近づけば、いつかは羽田空港にたどり着けるかもしれないという願望だけで動いているとしか見えない。

常に東京の空の玄関口としてのプライドを持ちながら、交通インフラには恵まれなかった蒲田。涙ぐましい努力は、まだ続くのだろうか。

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モノレールが実現していたら、JR蒲田の駅ビルに連絡通路ができていたのだろうか - 筆者撮影

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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)