麿赤兒「劇作家・唐十郎との出会いは衝撃的だった。浅草のロック座の前座で一緒だったビートたけしに〈あれが前衛だってよ〉と言われ」
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第33回は舞踏家・俳優の麿赤兒さん。劇作家・唐十郎さんとの出会いは、衝撃的だったそうで――。
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<前編よりつづく>
その男に惚れてしまった
そこで多分、第2の転機となる唐十郎との出会い。今年5月、唐十郎逝去の折、麿さんの追悼談話を聞いたときにありありと浮かんだ二人の出会いの情景を、直接また伺いたくて。
――そうですか(笑)。ある日、背のズングリした肩幅の広い男が、風月堂の窓際でぼんやり外を眺めている僕の横にヌッと現れて、透き通るようなテノールでこう言ったんです。「失礼します。私、唐十郎と申します。これを読んでいただけませんか」って。
ゆで卵をむいたような皮膚に、黒い眼が異様に光ってる。詐欺師かと思いましたよ、最初はね。(笑)
そこでノート大のボール紙に書かれた物を渡されて、見ると「月笛葬法」という手書きの文字が飛び込んできて、未完の戯曲らしい。僕はもうこの時点で彼に惚れてしまいましたね。何か堅気じゃないような眼の力にビビッとなった。
起承転結のある芝居じゃない、もう一つのトポス(文学・芸術における主題)というか、場を広げているような魅力が、当時流行り始めたベケットの『ゴドーを待ちながら』なんかにはあって。
だけどそれは外国の物だしなぁ、と思ってたところに、ピッタリはまったんですね、その唐十郎のボール紙の台本が。
麿さんは実はその前から唐十郎の名を知っていて、この風変わりな芸名「麿赤兒」もその影響からだとか。
――まぁそうですね。奈良の三輪山の麓で育ったんで、そこらへんの石碑にある柿本人麻呂の「まろ」や、山部赤人の「赤」が意識の奥底にあったんですが、唐さんの芝居のチラシを見ると、涙十兵衛(ルイ・ジュヴェ)とか、骸馬二(がいうまじ)とか、面白い芸名がいっぱいあったんで、その方式に則ったわけです。
それでしばらくすると、いつの間にか唐と李礼仙(のちに麗仙)の西荻窪の四畳半のアパートに転がりこんでいてね。当時僕は22歳。唐さんは三つ歳上かな。
李さんの作る朝めしを平然と平らげていたら、「いつまでいるつもりなの? 麿ももう大人なんだから独立しなくちゃ」って李さんから言われてね。(笑)
生き返って覚悟を決めて
唐十郎との出会いから一年半ほど後、もう一つの大きな出会いがあった。暗黒舞踏の創始者・土方巽(ひじかたたつみ)。こちらは麿さんより15も歳上の大人だった。
――正月三日の夕方、目黒にあった土方巽の稽古場を、人に連れられて訪ねました。薄暗い板の間に、いがぐり頭に眼のギョロッとした男がドテラを羽織って、七輪の上で餅を焼いてました。その鋭い眼光の奥に広がる優しさを感じて、僕は兄貴に巡り合ったような気がしたものです。
土方さんの稽古場は、昼間は空いているというので、唐さんの芝居の稽古場に使わせてもらうことになったり、またここへ出入りするすごいメンバーと知り合ったり。
ざっと挙げても、埴谷雄高、三島由紀夫、澁澤龍彦、池田満寿夫、種村季弘、赤瀬川原平、荒木経惟、篠山紀信、高橋睦郎、嵐山光三郎……。ですから僕は20代前半で大きな出会いが二度あったわけですよ。唐さんと、土方さんとの。
アルバイトの「金粉ショー」の話も是非。映画の『007ゴールドフィンガー』によると、皮膚呼吸ができなくなるため15分で絶命だとか。
――あれは嘘(笑)。でもそれを利用して、「こっちは命がけなんだ!」とギャラを釣り上げたりしましたね。芝居用のテントを買うために唐さん自身もやりましたけど、唐さんはプクッとして布袋様みたいで、もう一人の針金みたいにやせた奴と組むと、鉄条網に豆タンクが引っかかったようで、可愛いっちゃ可愛い(笑)。
僕は李さんとよく組みました。浅草のロック座とかフランス座とか、ストリップショーの前座に出るんですが、そのころビートたけしさんも前座で出てて、「あれが前衛だってよ」なんて僕らを見て言ってましたけどね。
筆者の関容子さん(左)と
麿さんが唐十郎のもとを離れ、「大駱駝艦」を旗挙げするのは29歳の時。でも、その前年に映画『闇の中の魑魅魍魎』の絵師・金蔵役で主演したことが世に広く名を知られるきっかけになる。
――『話の特集』の矢崎泰久さんが、日活から独立した中平康監督に僕を推薦してくれて決まったんですね。岡田英次、江守徹、加賀まりこさんも出て、あとから土方巽さんも出ましたね。この映画はかなり話題になって、カンヌ国際映画祭にも参加しましたからね。
その後、若い連中がうちに集まってくるようになって。狭いところにいつも十人くらいが、夏だとパンツ一丁でゴロゴロしてる。
ある日ふと、マーラーの曲をかけたんです。そうしたら連中の顔がなんだか急に高貴に見えてきて(笑)。ググッと身体が浮かび上がるような、これでいけるんだな、というよこしまな発想が浮かんだ。これが僕の「天賦典式」の由来なんです。
美術界のアンデパンダン(アカデミーに対抗して開かれる無審査・無賞の展覧会)の、ゴミ持って来てそこに置けば作品だという、その発想に似てますね。以来、半世紀以上にわたって、今日までずっと来ています。
途中、55の時に僕は胃がんをやってます。胃の5分の4を切った。土方さんは57歳でがんで亡くなってますから、えー、俺は師匠より早く死ぬのかよ、嫌だなぁ、と思ってたら生き返って、あれで覚悟を決めたみたいな気がしますね。もう、意地でもやったるぞ、みたいな。
ですからこれが第3の転機かもしれません。身体が財産だということね。身体があって、突っ立ってればそれでいいんだよ、って師匠に言われて、本当にそうしてたら、いつまで突っ立ってんだ、って言われましたけど。(笑)
年内はこのあと8月に長野の白馬村、台北、神戸、九月にブリュッセルと巡り、今年の締めは、11月の世田谷パブリックシアターとか。麿さん、素敵なステージを!!