今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、見上愛が演じる中宮彰子(藤原道長の娘)が、塩野瑛久が演じる一条天皇の第二皇子・敦成親王を産んだことにより、微妙な立場に置かれることになった、一条天皇の第一皇子・敦康親王を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 

京都御所 写真=hana_sanpo_michi/イメージマート


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p.p1 {margin: 0.0px 0.0px 0.0px 0.0px; font: 13.0px 'Helvetica Neue'}p.p2 {margin: 0.0px 0.0px 0.0px 0.0px; text-align: justify; font: 13.0px 'Helvetica Neue'}span.s1 {text-decoration: underline}一条天皇の第一皇子

 一条天皇の第一皇子・敦康親王は、長保元年(999)11月7日に生まれた。

 父・一条天皇が数えで20歳、高畑充希が演じた母・藤原定子が24歳(生年を貞元元年(976)説で計算)の時の子である。

 父の一条天皇は、坂東巳之助が演じた円融天皇と、吉田羊が演じた藤原詮子(道長の姉)の間に生まれた皇子である。

 母の藤原定子は、井浦新が演じた関白藤原道隆(道長の長兄)と、板谷由夏が演じた高階貴子の娘だ。

 三浦翔平が演じる藤原伊周は定子の同母兄、竜星涼が演じる藤原隆家は同母弟で、敦康親王は彼らの甥にあたる。

 

敦康親王の誕生

 ドラマでも描かれたが、敦康親王誕生までの背景を振り返っておこう。

 正暦元年(990)5月、段田安則が演じた藤原兼家(道長や道隆の父)から、一条天皇の関白の座を譲られた道隆は、伊周を右中将、隆家を右兵衛権佐に任じるなど、子息たちを昇進させていく。

 10月には、同年正月に一条天皇の後宮に入内していた定子を、中宮に立てた。

 定子はいつしか一条天皇の寵愛を受けるようになり、正暦5年(994)8月、21歳の伊周は内大臣に任じられ、16歳の隆家は従三位に叙せられた。

 道隆は長徳元年(995)4月10日に病死し、新関白に任じられた玉置玲央が演じた藤原道兼も就任から10日余りで疫病のため没すると、道長が内覧に任じられ、政権の座に就いた。

 以後、伊周と輶家は、道長と対立を深めていくが、翌長徳2年(996)の「長徳の変」で自滅。左遷となった(長徳3年(997)4月5日に、二人とも召還される)。

 定子は一条天皇の子を懐妊していたが、自ら髪を切り落とし、内裏を退出した。また、この年には、定子たちの母・高階貴子が死去している。

 長徳の変後も、一条天皇の定子への寵愛は続き、同年12月、定子は一条天皇の第一子・のちに脩子と名付けられる皇女を出産。

 定子は長保元年(999)に再び懐妊し、生まれたのが、敦康親王である。

生母・定子の死

 敦康親王が生まれる6日前の11月1日には、道長と黒木華が演じる源倫子の娘である藤原彰子が、一条天皇に入内した。

 敦康親王が生まれた11月7日には、彰子に女御宣旨が下されている。彰子は12歳であった。

 道長は彰子を立后させ、定子を「皇后」、彰子を「中宮」とする、史上初の「一帝二后」(一人の天皇に、二人の正妻)を一条天皇に迫り、長保2年(1000)2月に決行された。

 だが、その後も、一条天皇の定子への寵愛は続き、定子は同年12月15日、第三子となる皇女・媄子を出産する。

 ところが、後産が下りず、定子は翌12月15日に薨じてしまう。

 こうして敦康親王は、僅か2歳で生母を失ったのだ。

 

彰子が養母に

 敦康親王は、14歳の彰子が養母となって育てることとなり、渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』長保3年(1001)8月3日条によれば、この日、敦康親王は彰子の上御直廬に渡った。

 これは、行成が、「後漢の明帝(顕宗)は子どものいない馬皇后に、粛宗(後の章帝)を養育させて、帝位につけた」という故事を引いて、彰子に敦康親王を養育させるよう、一条天皇に拝謁するたびに進言したのが実ったのだと、行成は『権記』に記している。

  だが、これは道長にとっても必要なことであった。

 伊周ら亡き定子の兄弟や親族に、外戚の地位を渡さないためにも、また、彰子が今後も皇子を出産することが叶わず、敦康親王が皇統を継ぐことになったとしても、彰子は養母、道長は養祖父という立場を確保するために、敦康親王は彰子のもとで育てる必要があった(山本淳子『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』)。

 同年8月18日には彰子の上御直廬で、敦康親王の魚味始(はじめて魚肉を食べさせる儀式)が、11月13日には彰子の御在所である飛香舎(藤壺)で着袴の儀が行なわれた(以上、『権記』)。

 寛弘元年(1004)正月17日には、敦康親王が内裏に参入し、飛香舎(藤壺)の東廂を御在所とした。この日から敦康親王と彰子は同じ殿舎で生活をともにする(『御堂関白記』同日条)。敦康親王は6歳、彰子は17歳になっていた。

皇太子の座は誰に?

 ドラマと同じように、敦康親王は彰子に我が子のように慈しまれ、大切に育てられた。

 幼すぎて、なかなか子を授からなかった彰子であるが、ついに懐妊し、寛弘5年(1008)9月11日、一条天皇の第二皇子となる敦成親王(後の後一条天皇)を出産する。

 さらに、翌寛弘6年(1009)11月25日には、第三皇子となる敦良親王(後の後朱雀天皇)も誕生した。

 二年続いての皇子誕生に道長は歓喜したが、敦康親王は微妙な立場に置かれることとなる。

 当時は、中宮が産んだ第一皇子が立太子し、やがて天皇に即位するのが通例であり、皇后、または、中宮が産んだ第一皇子が、皇太子となれなかった例は、一つも存在しなかった(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。

 一条天皇は愛する定子の子である敦康親王を皇太子に望んでおり、彰子もまた、我が子のように慈しんだ敦康親王の立太子を願っていたという。

 だが、道長は敦康親王を見捨て、自分の外孫である敦成親王を立太子させたいと、強く願った。

 そして、おそらく、敦成親王が天皇となった後には、敦成の弟・敦良親王を皇太子の座につけたいと考えたと思われる。

 翌寛弘7年(1010)正月28日には、伯父の伊周も37歳で没してしまい、敦康親王の後見はますます弱くなった。

 そんな状況のなか、寛弘8年(1011)5月22日、一条天皇は病に倒れた(『権記』寛弘8年5月25日条)。

20歳の若さで薨じる

 道長は同年(寛弘8年)5月27日、一条天皇に断りもなく譲位を発議し、翌5月26日、一条天皇は病のなか、側近の藤原行成に敦康親王の立太子について相談した。

 道長にも近しい行成は、敦成親王の立太子を提言し、一条天皇も受け入れた。

 同年6月13日、一条は譲位し、皇太子であった居貞親王が践祚し、三条天皇となった。ドラマでは木村達成が演じる。

 三条天皇は長和5年(1016)正月29日、眼病の悪化と道長の圧力を受け、彼の第一皇子の敦明親王(母は三条天皇の皇后・藤原娍子)の立太子を条件に譲位する。

 これにより、彰子の長男で、道長の孫の敦成親王が9歳で践祚し、後一条天皇となった。

 同年5月に三条院が崩御すると、後ろ盾を失った敦明親王は、8月に自ら皇太子を辞した。

 彰子はこの時も、次の皇太子には定子が産んだ敦康親王を推したとされるが、皇太子に立てられたのは、彰子の次男・敦良親王だった。

 敦康親王はついに立太子することなく、寛仁2年(1019)12月17日に、20歳の若さで薨じた。

 歴史物語『栄花物語』巻第十四「あさみどり」によれば、彰子は敦康親王の死を悲しみ、「敦明親王の次の東宮(皇太子)になられていたら、どんなによかったでしょうに」と嘆いたという。

 敦康親王は立太子を阻んだ道長を、恨んでいたのだろうか。

 道長の一族は、怨霊となった敦康親王に苦しめられることになる。

【敦康親王ゆかりの地】

●飛香舎(藤壺)

 敦康親王は、中宮彰子の御在所である飛香舎(藤壺)の東廂を御在所とした。

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筆者:鷹橋 忍