現在は球団職員として、球団を支える

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 学生時代に独立リーガーとの二足の草鞋を履いて、プロ野球選手に――第1回記事で紹介した、元横浜DeNA投手の笠井崇正さん(30)は異色の経歴でした。育成ドラフトで入団後、待望の一軍デビューを果たします。ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第2回記事では一軍時代の笠井さんと、引退後の第2の人生について伺います。(全2回の第2回)

【写真】本拠地・横浜で力投するかつて雄姿と、経理業務に勤しむ現在の姿

悲願の一軍登板を果たしたものの……

 早稲田大学野球部を2日で辞めた男に、ついにチャンスが訪れた。ペナントレースが大詰めを迎えていたシーズン終盤の大事な場面で、笠井崇正は一軍デビューを果たす。北海道・旭川西高校時代、強く恋い焦がれた甲子園球場のマウンドに立ったのである。

現在は球団職員として、球団を支える

「ブルペンカーに乗ってマウンドに向かう途中、阪神ファンから“誰や、お前!”とヤジが飛びました。でも、内心では意外と冷静で、“そりゃそうだよな。オレのことを知っている方がどうかしているよな”って考えていました(笑)。それよりも、かなり大差でリードしていた場面だったとはいえ、まだ順位争いをしている大事な時期にマウンドを託された喜びの方が大きかったです。すごく楽しかったですね」

 大量リードで迎えた9回裏、笠井は阪神の攻撃を見事に封じた。プロ初登板を上々の出来で終えることができたのである。さらにその2日後、神宮球場で行われた東京ヤクルトスワローズ戦では先発投手が早々にノックアウトされたことで、再びチャンスが訪れた。

「この試合は、先発投手が崩れた後の試合を立て直すための登板となりました。初登板と比べると、より役割が明確だったので緊張感はありました。結果的には2回を0点で抑えることができたけど、決して内容はよくなかった。まだまだ課題は多かったですね」

 入部早々に野球部を辞め、一般学生たちとサークルで野球に興じていた笠井は、自らの手でチャンスをつかんだ。高校時代の憧れの聖地・甲子園球場、そして「一度は早慶戦で投げてみたかった」と願っていた、学生野球のメッカ・神宮球場。「自分とは縁のない場所」だと思っていた夢の舞台の出場切符を手にしたのだ。

 その後、笠井は順調なステップを踏んでいく。プロ3年目には開幕一軍を勝ち取り、その年のオフには志願してオーストラリアでのウインターリーグに参加した。大学時代の経験不足を補うべく、笠井は貪欲に技術習得を求めていた。

「プロ1年目から3年目までは、決して華やかではないけど地道に自分のやるべきことができていたと思います。でも、それ以降はサッパリでした。二軍でもチャンスを与えてもらっているのに結果を残すことができず一軍に呼ばれない。決して故障していたわけではないんです。それでも、納得のいく結果を残すことができない。球団からの期待が、どんどん薄れていくのを感じていました……」

 プロ5年目となる2021(令和3)年、笠井は久しぶりの開幕一軍を勝ち取ったものの、この年の初登板となった開幕2戦目で1回6失点という大炎上を記録し、すぐに二軍降格となった。そして、これが彼にとっての最後のマウンドとなったのである――。

「他の人をサポートする仕事に就きたい」

「プロ5年目の右のリリーフピッチャーでしたから、“そろそろ戦力外通告もあるな……”という思いはずっと持っていました。この年はキャンプ、オープン戦と圧倒的に自信を持って開幕を迎えたのに、最初の登板でいきなり1回6失点という散々な結果となりました。“このままやっていてもダメだろう。何かを変えなければ……”という思いはあるのに、何をすればいいのかわからない。暗闇の中で迷い始めたのがこの年でした」

 笠井の予感は的中する。シーズン終了後、球団から戦力外通告を受けた。すでに覚悟はできていた。それでも、「他球団に移籍して、環境が変わればまだ可能性はあるかも?」との思いでトライアウトに臨んだものの、獲得に名乗りを上げる球団はなかった。

「もう満足でした。大学の野球部を2日で辞めて、“もっと野球がしたい”という思いで独立リーグに行って、その後はNPBでも投げることができた。もう満足でした。完全燃焼でした。そんな思いを持つことができたことが、自分でも嬉しかったです」

 未練なく野球への思いを断ち切ることができた。プロでの成績は、20試合登板で勝敗はつかず。18失点で奪三振は23、防御率は5.93だった。

 第二の人生もまた前向きに進んでいこう。そんな思いを抱いていた笠井の下に意外なオファーが届く。それが「球団の経理にならないか?」という申し出だった。大学ではスポーツ科学を専攻していた。商業高校出身でもなければ、商学部卒業でもない。簿記など見たこともなければ、貸借対照表の見方もわからない。まったく未知の分野である。一体、どうして、そんなオファーがもたらされたのか?

「実は現役最後となった21年のシーズン途中、球団の人との雑談の中で、“引退後はどうするか?”という話題になったときに、“僕は経理をやってみたい”と言ったんです。まったくの未経験ではあったけど、“まずは簿記の資格を取ればいい”というように、やるべき順番がハッキリしていたので、社会人経験のない自分にも向いているような気がしたんです」

 実はこの頃、笠井はチームメイトに内緒で「適職診断」を行っていた。「すでに来季の契約はないだろうな」と考えていた彼は、インターネットの関連サイトをしばしば訪れていたのである。

「適職診断の結果、“人前に出てみんなを導くよりも、裏方に回って人々を支える方がいい”という結果ばかりでした。実際にこの頃は、次の仕事は、他の人をサポートする仕事に就きたいと思っていました。だから、シーズン中からすでに簿記の勉強を始めていたんです」

 多くのファンの前で自らの技術を披露して大金を稼ぐプロ野球。それは一面では、いくら努力しても、必ずしも報われるとは限らない正解のない世界でもある。華やかな世界に疲れ果てていた笠井にとって、やるべきことが明確で、「白か、黒か?」、必ず正解がある経理職に対する憧れが大きくなっていた。

球団選手から球団経理への異色の転身

「実はシーズン中に球団の経理部長を紹介してもらって、仕事内容についてお話を聞いたこともあったんです。その方がとても優しい人で、“野球選手のように表に出て、自分の力で成績を上げていくような華やかな仕事ではないけど……”と口にしたのが印象に残っています。“それでも大丈夫?”と聞かれたので、“大丈夫です”と答えましたね」

 むしろ、それこそが笠井の望んでいた仕事だった。トライアウト終了後、迷うことなく入社を決めた。球団選手から球団経理への異色の転身である。入社後すぐに簿記の資格を取得し、すぐに実務に励む日々が始まった。自分でも驚くほどやりがいを感じていた。

「よく、“数字なんか見たくもない”という人もいる中で、自分はそれがまったく苦になりませんでした。やっぱり、正解のある仕事というのは自分に向いているんだと思います。すべてにおいて根拠がある。正解を導き出す方法がある。でも、野球は決してそうじゃなかった。経理の仕事をしていると、つくづくそう思います」

 現役時代から家計簿をつけていた。そして現在では複式簿記を使って家計の管理をしているという。決して華やかな仕事ではないけれど、さまざまな書類と格闘し、電卓を叩きながら「正解」を導き出す今の仕事は楽しい。充実感も覚えている。かつてトライした「適職診断」は正しかったのだ。

「今は経費精算等を含め、個々の取り引きについて検討・処理する業務が中心ですけど、ゆくゆくはバランスシートをチェックしながら会社全体のお金の流れを把握できるような仕事もしてみたいですね。インボイスのように、税金に関する仕組みは日々変わるので毎日が勉強です。税務署とのやり取りも頻繁にあります。でも、やるべきことがハッキリしていて、自分で努力してアップデートしていく作業は楽しいです。野球選手時代は、“何で休みがないんだろう……”と不満に思うこともあったけど、今はキッチリ週休2日なのもとても嬉しいです(笑)」

「元プロ野球選手」とは思えない発言が続いた。最後に笠井に尋ねた。「あなたにとってのプロ野球選手時代とは?」。

「勲章です。やっぱり、自分でも“すごい世界にいたんだな”と思います。決して活躍したわけではなかったけど、“野球をやりたい”という思いで頑張った結果、本当にプロ野球選手になることができた。大した選手ではなかったけど、《元プロ野球選手》という肩書きが僕にはある。それはやっぱり誇りたいですね」

 何の迷いもない口調が清々しい。現在は会社を支える経理部の一員として過ごす笠井の表情が、この瞬間だけは「元プロ野球選手」となっていた――。
(文中敬称略)

*第1回記事では早大入学後、本格的に野球を学ぼうと野球部に入部するも2日で退部。野球サークルを経て、プロ入りするまで。

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)ほか多数。

デイリー新潮編集部