スバル「初代インプレッサ」が残した名声と課題
現在はハッチバックとなっているインプレッサは、セダン/スポーツワゴンという形状で登場した(写真:SUBARU)
“スバリスト”と呼ばれる、熱烈なスバルファンが存在する。そのスバリストが、今なお愛してやまないクルマのひとつが、1992年11月に登場した初代の「インプレッサ」だ。
WRC(世界ラリー選手権)における活躍と、ストリートでその高性能を実感できるWRXグレード、さらには先鋭化されたSTiバージョンの存在など、“走り”のスバルを体現する名車といえる。
20〜30年以上経った今でも語り継がれるクルマが、続々と自動車メーカーから投入された1990年代。その頃の熱気をつくったクルマたちがそれぞれ生まれた歴史や今に何を残したかの意味を「東洋経済オンライン自動車最前線」の書き手たちが連ねていく。
インプレッサ誕生前のスバル
初代インプレッサを説明する前に、ぜひとも知っておきたいのが当時のスバルの状況だ。
スバル(ブランド名は昔から“スバル”ではあったけれど、会社の名前は2017年までは富士重工業株式会社)は、第2次世界大戦後の1953年に、中島飛行機を引き継ぐ民生企業として生まれた。
そして、1958年に“テントウムシ”の愛称で知られる「スバル360」を発売し、自動車メーカーとして成長してゆく。
スバル360の登場は日本に「マイカー時代」を到来させるきっかけのひとつでもあった(写真:SUBARU)
ただし、ビジネスの中心はスバル360の後を継いだ「R2」や「REX」、商用車の「サンバー」といった軽自動車であった。軽自動車の上のクラスとなる登録車は、1966年発売の水平対向エンジン+FF(前輪駆動)の「スバル1000」だけであり、1971年には、そのポジションを「レオーネ」に譲る。
実のところ1970年代は、そのまま「軽自動車とレオーネ」しかラインナップがなかった。
しかし、1983年に小型ワンボックスの「ドミンゴ」、翌1984年にリッターカーの「ジャスティ」、さらに1985年にフラッグシップのクーペ「アルシオーネ」を追加。1980年代後半になって、ようやく、レオーネを中心に、下にジャスティとドミンゴ、上にアルシオーネという体制を整えることができたのだ。
そして、空前の好景気に沸き立つバルブ真っ盛りの1989年2月に、スバルは初代「レガシィ」を発売する。
スバルは、このレガシィを使って、1989年1月に平均速度223.345km/hで10万kmを走り切る世界速度記録を達成。また、1990年4月よりWRCへの本格参戦を開始するなど、レガシィの“走り”を大いにアピールした。
ワゴンボディにターボエンジンを組み合わせた「レガシィ ツーリングワゴンGT」が大ヒット(写真:SUBARU)
ただし、ここで問題が発生する。レガシィは、アメリカ市場を強く意識していたため、レオーネよりもサイズが大きくなってしまったのだ。そのため、リッターカーであるジャスティと、2リッタークラスのレガシィの間が空いてしまう。
ここはトヨタ「カローラ」を筆頭とする、当時の超売れ筋セグメントである。実質的なレオーネの後継が必要となったのだ。そこでスバルが用意したのが、1992年11月発売のインプレッサであった。
スクエアな形状の「レガシィ」に対して「インプレッサ」は丸みを帯びたデザインで登場(写真:SUBARU)
インプレッサのメカニズムは、水平対向エンジン+4WDレイアウトというレガシィ譲りのもの。ドアが、窓枠のないサッシュレスであるのも、レガシィと同じだ。サイズはレガシィよりも小さく、4ドアセダンとステーションワゴンの2種類のボディを用意した。
ただし、ここにインプレッサの個性があった。ステーションワゴンは荷室を広くするため、全長を大きく伸ばすのが通例である中、インプレッサのワゴンはセダンと10mmしか違わなかった。
これが意味するところが、「荷室は狭くても走りには有利」ということ。そのためスバルは、この短いワゴンを「スポーツワゴン」と名付けた。
デザインも質実剛健のワゴンというよりはハッチバックようなスポーティさを持つものだった(写真:SUBARU)
ラリーでの3連覇で高性能イメージを確立
1993年になると、WRCへの参加車両をレガシィからインプレッサに変更。そうしたイメージに合わせるように、インプレッサには高性能版であるWRXグレードを用意した。ベーシックな1.5リッターエンジンの最高出力が97馬力であったのに対して、WRXの2.0リッターターボは、240馬力もの高出力を誇った。
しかも、WRCにおいてインプレッサは、1994年に初優勝を飾り、1995年にはマニファラクチャーズチャンピオンを獲得。さらに1996年、1997年もチャンピオンとなり、3連覇を達成する。
このWRCでの日本車の活躍に、国内は大いに盛り上がった。F1やパリダカールラリーなど、1990年代の日本は、モータースポーツの人気が非常に高かったのだ。
そうした国内の熱気に後押しされるように、インプレッサはさまざまな高性能バージョンを世に送り出す。モータースポーツ参戦を主眼とする競技仕様のWRX RAに始まり、1994年からは、さらなる高性能なSTiバージョンを登場させる。
STi(スバルテクニカインターナショナル)が手掛けたモデルがイメージリーダーとなっていく(写真:SUBARU)
ちょうど、WRCでライバルであった三菱自動車からも「ランサーエボリューション」シリーズが発売されており、自動車媒体では「インプレッサSTi対ランサーエボリューション」が定番の比較記事になっていた。
つまり、1990年代前半の国内のモータースポーツ熱の高まりにあわせて、インプレッサは大いに注目されていったといえる。
販売を支えたスポーツワゴンという存在
1970年代から1980年代にかけてのレオーネは、クルマ好きからの評価こそ高かったものの、知名度という点では相当に低かった。それが、インプレッサはWRCでの活躍もあって、レオーネとはまったく異なる存在感を発揮した。
ちなみに、スポーツイメージの強い初代インプレッサではあったが、販売台数で見ればスポーツワゴンのほうが売れていた。初年度こそ、セダンとスポーツワゴンの販売は拮抗していたものの、発売から3年以降は、つねにスポーツワゴンのほうが、セダンよりも数多く売れていたのだ。
スポーツワゴンにもターボエンジン搭載のWRXグレードを用意し、人気を博した(写真:SUBARU)
今ではピンとこない人も多いだろうが、1990年代当初のステーションワゴンは、今のSUVのような売れ筋のジャンルであった。逆にSUVはクロカン4駆(クロスカントリー4WD)などと呼ばれ、もっと土の香りが強かった。
人気のあったパリダカールラリーの影響もあっただろう。具体的には、三菱「パジェロ」、トヨタ「ランドクルーザープラド」、日産「テラノ」などが売れていた。
ちなみに、まだ「ハリアー」のような都会的な車種はなく、現代のSUV的な用途を考えると、土の香りが強いクロカン4駆かステーションワゴンのどちらになるのであった。
そんなこともあって、インプレッサのスポーツワゴンは、実用的で流行の“ちょっとイメージの良いクルマ”に見られていた。実のところ、このスポーツワゴンがなければ、初代インプレッサの販売は、非常に苦しいものになっていたはずだ。スポーツワゴンを用意したのは、まさに慧眼であったといえる。
販売台数は非常に少なかったが「リトナ」という名のクーペもあった(写真:SUBARU)
当時のスバルの実力がうかがえるクルマ
そうはいっても、インプレッサの販売数はそれほど多くなかった。
1992年の発売から2000年に2代目へとモデルチェンジするまでの販売台数は、年間3万〜4万台レベル。年間販売台数ランキングで、上位10位に入ることはなかった。また、兄貴分であるレガシィの年間販売台数、5万〜9万台にも及ばなかった。
WRCでの活躍により多くのファンを生み出すことには成功したが(写真:SUBARU)
当時のナンバー1であるカローラの販売は、年間20万台レベル。それと比べると、インプレッサは、“今ひとつ”であったことがわかる。名声こそ集めることはできたが、ビジネス的に大成功だったかというと、少々難しいだろう。
もちろん、WRCの活躍やそれにあわせたSTiバージョンの投入は、注目を集める特効薬になったと思う。しかし、販売を伸ばすには、もう少し違った手が必要だったのではないだろうか。
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当時を知る筆者の印象では、「インプレッサ=めちゃくちゃに速いクルマ」だ。しかし、「デザインが地味で割高。販社も少ない」という認識もあった。決してクルマとしての実力が、ライバルに負けていたわけではない。しかし、結局のところ売れるためには、デザインや価格、販売網が重要だったのだろう。
当たり前の部分に対して、きちんと対応できなかった。それがトヨタや日産、ホンダに及ばなかった、当時のスバルだったのだと思う。
【写真】ベースグレードからSTiバージョンまで初代インプレッサを見る(26枚)
(鈴木 ケンイチ : モータージャーナリスト )