神道を信仰しキリスト教を嫌い続けた、戦国武将・大友宗麟の正室「奈多夫人」の壮絶すぎる人生

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九州地方の戦国武将・大友宗麟の2人目の正室として知られている奈多夫人。

それだけではなく奈多夫人は、略奪婚されていたり、宣教師たちからイザベルと呼ばれていたり、自殺未遂していたりと宗麟とキリスト教に人生を翻弄された人物でもありました。

今回はそんな奈多夫人の悲劇的で波乱万丈な人生をご紹介します。

結婚していながら宗麟の妻となる

大友宗麟/Wikipediaより

奈多夫人は九州一の美女として知られており、宗麟の家臣である服部右京亮に嫁いでいました。

しかし、奈多夫人の美貌に惹かれたか何かで、宗麟はあろうかことか自身の妻としてしまいます。加えて、宗麟の子を宿しており、ジェスタと呼ばれた娘を出産していました。

また、服部右京亮は宗麟の母方の叔父にあたり、甥の宗麟に妻を奪われた虚しさは計り知れなかったかと思われます。それが原因かは不明ですが、天文22年(1553)に謀反を起こした罪で服部右京亮は粛清。

夫を失った奈多夫人は、宗麟の正室として生きていくことになりました。

尚、宗麟には奈多夫人を正室にする前に一色夫人と呼ばれる正室がいましたが、家督相続した天文19年(1550)に離縁しています。

神道を信仰し、キリスト教に反発する

大友義統/Wikipediaより

宗麟との間で大友義統(よしむね)や親家、親盛といった男児を生みました。跡取りを出産したにも関わらず、宗麟は複数の側室を持っていました。

そのことに不満だった奈多夫人は、国中の僧侶や山伏を使って女性へのお手つきを止めさせる祈祷をしたといいます。

また、父親の奈多鑑基(なた-あきもと)が奈多八幡宮の大宮司ということもあり、神道を信仰していました。

対して、宗麟や大友家中はキリスト教を信仰し始めていたので、これに反発したことで2つの事件を起こしてしまいます。

自身の子に棄教を迫る

1つ目の事件は天正3年(1575)、奈多夫人の娘であるテクラ(久我三休室)に仕えるキリシタンの少年・エステバンが、寺から護符を持ってきてほしいというテクラのお願いを断ったことが原因で起こりました。

奈多夫人はエステバンの行動に怒り、棄教しなければ死罪とするように伝えますが、これも断ったことで義統に命じて死罪にしようとします。

しかし、事態を重く見た宗麟がエステバンの死罪を止めたことで、この事件は収束しました。

この事件はエステバン事件と呼ばれ、大友家中にキリスト教が広まっていることを危惧した奈多夫人は、キリシタンとなっていた親家に棄教を迫るようになりました。

子を避けたことで宗麟と不仲になる

2つ目の事件は、天正5年(1577)に奈多夫人の兄・田原親賢(たはら-ちかかた)の養子だった田原親虎がキリスト教に入信を希望したことで起こります。

奈多夫人は親虎が自身の娘と婚姻するにも関わらず、キリシタンになろうとしていたことに激怒。

親賢と親虎にキリスト教に入信した際には、婚約破棄と廃嫡すると伝え、キリスト教から切り離すために豊前に移させました。

その努力虚しく、親虎がキリシタンとなっていた事実を知った2人は、棄教させるために親虎を軟禁しました。

この強引とも言える2人のやり方に異を唱えたのは、キリシタンで奈多夫人の子・親家であり、親虎の軟禁を止めるよう訴えます。最終的にこの事件は、親虎が廃嫡となったことで収束しました。

しかし、奈多夫人は親家の行動に怒り、親家を避けるようになります。

さらに、この事件を機に宗麟との夫婦仲は険悪になり、奈多夫人は心労を理由に病床に伏せてしまいました。

キリスト教を拒絶するあまりイザベルと呼ばれるように

イザベル/Wikipediaより

このように、事あるごとにキリスト教に敵意を向けていたので、宣教師たちは奈多夫人をイザベルと呼ぶようになりました。

ちなみに、イザベルは旧約聖書に登場する古代イスラエル王の妃だったイザベルを指しています。

彼女は異教を信仰し、ユダヤ教の預言者を迫害したので、そのような部分が奈多夫人と被っていために呼ばれたと考えられます。

宗麟と離婚後はキリスト教に寛容になる

ロザリオ/Wikipediaより

キリスト教を受け入れない奈多夫人に対して宗麟は、天正6年(1578)に親家の妻の母親で奈多夫人の侍女頭でもあった林ジュリアを側室にし、奈多夫人と離縁しました。

宗麟から一方的に離縁を言い渡されたこともあって、奈多夫人は絶望のあまり自殺を決行。しかし、昼夜を問わず見張られていたので、未遂で終わります。

その後は、天正14年(1586)に侍女がロザリオを忘れた際には協会まで届けたり、キリストに祈りを捧げるようになったりと、キリスト教に理解を示すようになりました。

そして、奈多夫人は天正15年に疫病で病死しますが、最後まで神道への信仰を捨てずに生涯を終えました。