漫画家に至るまでの自らの半生を「遠回りだった」と語る安彦良和氏(撮影:梅谷秀司)

アニメ「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイン、ディレクターとして活躍し、漫画家としても活動する安彦良和氏(76)。「ガンダム」放映45周年を迎える今年、兵庫県立美術館で開催中(〜9月1日)なのが「描く人、安彦良和」展だ。アニメや漫画の原画のみならず、学生時代のノートに描かれた漫画、日の目を見なかったアニメの企画書など、貴重な資料が展示される。

北海道で開拓民の3世として生を受けた安彦氏。大学時代は学生運動に参加し、大学を除籍。その後、アニメーター、演出家などとして「宇宙戦艦ヤマト」「ガンダム」などの名作を手がけた。

だがその後、いったんはアニメ業界を去り、漫画家に転身。『ナムジ 大國主』『虹色のトロツキー』など、歴史漫画を執筆。そして、2014年には自らの漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を原作としたアニメの総監督として、25年ぶりにアニメの仕事に復帰した。

安彦氏が半生をかけて描いてきたものとは。戦後日本のエンタメ史とともに振り返る。

【画像】安彦良和氏が手がけた原画や、学生時代のノートに描かれた漫画など(5枚)

子どもの頃はほとんどアニメを観なかった

――アニメーターとして出発し、漫画家、アニメ監督など、多岐にわたるご活躍をされてきました。ご自身としては、生業(なりわい)をどう認識しているのですか。

子どもの頃から夢見ていたのは、漫画家になること。手塚治虫や横山光輝に憧れた。ただ、目標があまりに遠くて一度は「まともな社会人になろう」と夢を諦めた。結果として今は漫画家をやっているが、ものすごく遠回りした人生だった。

その「遠回り」の1つが、アニメの仕事だった。僕は北海道の田舎に住んでいたから、子どものころは家にテレビがなくて、ほとんどアニメを観ていなかった。

だから上京して(手塚治虫が創設したアニメ制作会社である)「虫プロダクション」に偶然にも拾ってもらったときは、アニメ「鉄腕アトム」すら見たことがなかった。アニメーターって何をやるんだろう、というレベルだ。


安彦氏が高校時代にノートに描いた漫画作品(画像:『遙かなるタホ河の流れ』上巻より)

――それでも、「憧れの手塚治虫」の下で働けたのですよね。

そんな感動はまったくなかった。上京して写植の仕事を3カ月やったが、どうにもつまらない。そこで床にひっくり返って新聞の求人欄を見ていたら、たまたま虫プロの養成所で人を募集しているのを見つけ、「写植よりはいいかもしれない」と応募した。今思えば、実に失礼な話だ。

虫プロの本社は手塚さんの自宅の敷地内にあって、僕が配属になったスタジオはそこから1駅離れたところ。物理的には手塚さんの近くにいたわけだが、遠い存在だった。僕はアニメーターだから。アニメに詳しくなかった僕でも、工場の工員のような存在、という知識くらいはあった。

結局、虫プロは僕が入社3年目の1973年に倒産することになったが、そのとき社内で挨拶をする手塚さんをホールの隅っこから見て「あ、手塚さんだ。動いてる」と思うような距離感だった。

僕自身がよくわからずに就職したくらいだから、世間でもアニメの仕事は認知されていなくて、「今なにやってんの?」と聞かれるのが本当に嫌だった。

「アニメって、何?」「テレビでやってる漫画」「あー、あれね。『巨人の星』とかやってるんだ?」「いや、あれはメジャーなやつで、俺がやってるのはもっと目立たないの」と、説明をしなくてはならない。学生運動を一緒にやった仲間から、「それやってどうすんの? 世の中変えられるの?」と言われたときは、グサリときた。

当初、ロボットアニメは低く見られていた

――アニメの仕事にやりがいを感じるようになったのはいつ頃からですか。

フリーになって、(絵コンテなどを描く)演出の仕事をやりだしてからだろう。虫プロ倒産後、そこから分岐した創映社(現バンダイナムコホールディングスのアニメ制作スタジオ・サンライズの前身)でフリーとして働いた。原作が買えない貧乏な会社だったということもあり、オリジナルアニメの企画書を出すことができた。

企画書が通りやすいジャンルが、ロボットアニメだった。玩具会社に「商品になる」と思ってもらえたら、スポンサー枠を半分以上持ってくれる。サンライズは最終的にアニメ制作会社の中で業界2位までいったが、ロボットアニメというジャンル自体は低く見られていた。同じアニメでも、「カルピス名作アニメ劇場」などでやるのがいいアニメ、というような価値観があった。

その流れが変わる転機となったのが、「宇宙戦艦ヤマト」(1974年〜)だろう。子どものためのアニメから、別のターゲットが見えてきた。ハイティーン層だ。


「アニメ=子ども向け」の概念を変えたのが、『宇宙戦艦ヤマト』だった(画像:『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』 ポスター原案 ©東北新社/著作総監修 西粼彰司)

1970年代半ばから、高校生や大学生の女子を中心にアニメサークルができた。女子のほうが精神的に成熟していて、頭もいい。サークルのリーダーは女子で、女子がいると、そこにオタクの男子がついていく。だから若い女性を中心としたコアなファンを獲得できるかが、アニメの成功の目安になった。

ガンダムのときも、テレビ放送の視聴率が取れないなどのネックはあったが、目指したのは「ヤマトモデル」。作品自体は女性向けとは言えなかったが、ファンとして目立っていたのは女性だった。

――「ヤマトモデル」を踏襲するのに必要なこととは。

敵役の男性が(「宇宙戦艦ヤマト」に登場する)デスラー総統のような美形キャラであること。そこにミーハー的な人気が出る。「ヤマト」の場合は、たまたまそういうデザインだっただけだが、次第にあざとく狙うようになった。

ガンダムも、シャアは最初から美形という設定だった。僕はへそ曲がりだから、あえてマスクで顔を隠した。すると富野由悠季監督が第2話の演出でさっさとシャアのマスクを取ってしまう。焦って顔を考えることになった。

アニメから離れて漫画専業に

――アニメ「機動戦士ガンダム」がヒットし、そのままアニメ業界で生きていく道もあったはずですが、1989年に『ナムジ』の連載を開始し、しばらく漫画専業となります。

1980年代前半までは、「俺もいけるかも」と思っていた。ただ、ガンダム以降となる1980年代、アニメは大きな節目を迎える。宮崎駿氏の監督作品が国民的アニメになって、大友克洋氏、庵野秀明氏など、異業界からの参入を含めて、若い才能が続々とアニメ業界に押し寄せてきた。

かつては、あくまで漫画が「主」でその「従」がアニメという位置づけだった。『巨人の星』や『明日のジョー』も、漫画をアニメ化して放送することで視聴者がどっと来て、視聴率が取れるという構造。それが、1980年代にはアニメという表現自体に面白さがある、(原作のない)オリジナル作品も作れる、という流れになって、アニメ表現としての独立性が高まっていった。


アニメの仕事の代表作といえる『機動戦士ガンダム』(画像:『機動戦士ガンダム』(劇場版) ポスター原画 ©創通・サンライズ

こうして、俺の時代と思ったのもつかの間。尖った、非常にマニアックなアニメが作られる様子を目の当たりにし、「これは俺にはできないな」と痛感するようになった。

――「俺にはできない」と感じさせた才能とは。

象徴的だったのは、庵野秀明氏。彼は学生時代から特撮やアニメが大好きで、自主的にフィルムを作っていたのだが、それが非常にラディカルで面白い。とくにインパクトが強かったのは、1987年に公開された『オネアミスの翼』。劇場で観て、とんでもないものを作りやがった、と驚愕した。

「好きこそものの上手なれ」で、彼らは常識外れなぐらいぶっ飛んだことをやる。業界に長くいると、そんなコストのかかることをやったら会社が潰れてしまう、テレビアニメだったらこの程度だろう、と、迷惑をかけない程度に頑張るクセがつく。庵野氏たちは端からそういう頭で作品を作っていないから、とんでもないことをやってのける。そこまでの才能と熱量が僕にはなかった、と自覚した。

そう感じていたとき、見えたのが漫画を描くという道だった。大勢の人がかかわり、大きなお金が動くアニメと異なり、漫画の場合は個人的な作業だから、自由度が高くて描きたいものが描ける。連載してみて人気が出なければ「ごめんなさい」でやめればいい。そう思って、1990年代から専業漫画家になった。実際に歩みだして「本来の俺の夢は漫画家だったんだ」と思い出した。

漫画の仕事はしっくりきたが、アニメでなまじ成功していた分、敗北感はあった。

歴史を史実に縛られず、自由に描く

――漫画作品では、歴史モノを多く手がけていきます。

ちょうど「最後のアニメ作品」の仕事が終わる頃に、描き下ろしで『古事記』をテーマに漫画を描かないか、とお世話になっていた編集者から提案があった。「好きなように描いていいですか」と聞くと、「いいよ」と言うので、『古事記』の解説ではなく、その素材を自分なりに解釈して描いた。

解釈するといっても、僕は研究者ではなく漫画家だ。史実に縛られず、自由に描ける。たとえば、日本にまだ騎馬の習慣がない時代を描いていても、見栄えが良くなるから(登場人物を)すぐ馬に乗せてしまう。ちょっと軽薄だな、という認識はあるが、漫画はビジュアルが第一なのだから、仕方がない。資料が豊富に残っている時代だとさすがにそれを無視することはできないから、「歴史以前」の時代は、むしろ描きやすかった。


漫画専業になってからは、歴史モノを多く手がけた(画像:『ジャンヌ』より ©安彦良和

――作品には、魅惑的な女性キャラクターが多々登場します。

女性を描くのははっきり言って苦手だ。女性の気持ちはなかなかわからないから、男性から見た女性として、勝手に理想化してしまうきらいがある。

今のフェミニズムは、女性という性を超越しようというふうに見えて、ちょっと苦手だ。好きなのは、もっと原始的(プリミティブ)なフェミニズム。

『魏志倭人伝』には、男性の王ではクニがよくまとまらないときに、女子を擁立したらまとまったと記されている。もっと遡れば、『はじめ人間ギャートルズ』に描かれているように、狩りに行った男性が空手で帰ってきたら、貫禄のあるお母さんが「甲斐性なし!」と叱るような、家でどっしりと構えている女性たちの姿があったのではないか。

これが要するに、「原始、女性は実に太陽であった」ということだ。男性との役割分業があったとしても、それは差別ではなく、女性が大きな存在感を示していたのだと思う。現代の「女性活躍」は女性が男性と同じように社会で働くことを重視する。もちろん、能力がある女性はどんどん社長にでも、総理大臣にでも、なっていくべきだ。ただ、それだけが女性の活躍とは限らないだろう。

25年ぶりに「ガンダム」のアニメ化で総監督に

――いったんは専業漫画家になったにもかかわらず、25年ぶりにご自身の漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』のアニメ化にあたって総監督を務めました。


自らの漫画のアニメ化にあたっては、自身が監督を務めた(画像:『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』カラーイラスト原画 (「機動戦士ガンダム THE ORIGIN Blu-ray Disc」6巻 初回限定生産盤) ©創通・サンライズ

『オリジン』の原作には、熱いファンがついていた。だったら、原作を描いた人間が監督をすべきだと思った。

僕は、アニメの演出をするときはたいてい、シナリオを大きく変える。最初に描いた絵コンテもシナリオを大幅に変えたもので、シナリオライターを怒らせてしまったことがある。そのときは監督が間に入ってなんとか事を収めてくれたが、持論では、シナリオは変えざるをえないと思っている。

アニメづくりにおいて絵コンテは設計図のようなもので、それに沿って作業を進める。設計図に落とし込む時に、シナリオから変えざるをえない点はどうしても出てくる。

ただ、ここに原作がある場合にはちょっと話が変わってくる。原作を変えてさらに良くすることができるなら改変してもいいだろうけど、損なうケースのほうが多いのではないか。

だから僕は、アニメの仕事をしていた時代にも、ほかの人が手がけた原作のあるアニメはやらないと決めていた。下手に原作を傷つけたら申し訳ない。

劇場版アニメ『THE FIRST SLAM DUNK』は、原作者の井上雄彦さんが自ら克明にアニメ化して、それで原作のファンが大喜びし、新規のファンもついた。これは井上さんにそれだけのスキルがあったからこそできたことで、本来はそうあるべきだ。

漫画の表現方法は完成の域に近づいている

――最近は、原作のあるアニメは「いかに原作に忠実か」が原理原則になり、かつてあったようなアニメのオリジナル展開も減るなど、アニメとしての表現の幅が制約されているとも言えます。

ある意味また、漫画が「主」でアニメが「従」という昔の時代に戻ったといえる。一方で、オリジナルアニメしか作らない、というクリエイターもいる。それは、今ではアニメが独立した表現手段として認められているから。

「原作に忠実なアニメ化」をやりたい人はやればいいし、やりたくない人は自分の世界観を築けばいい。今は、かつてと異なり、その道があるのだから。

日本の漫画は非常に特殊な媒体だ。2次元で彩色がないシンプルでローテクな表現だが、読む側が想像力を働かせれば、無限に世界は広がっていく。そこに、世界中から注目が集まっている。

コマ割り1つを取っても、コマの大小、形、流れ――たとえばページをめくったときにあっと驚くような大ゴマが用意されているとか、工夫が重ねられてきた。漫画が追求してきた表現方法は、今や完成の域に近づいている。これは、日本の財産なのだと思う。

今は、海外からカラーの縦スクロール漫画が入ってきて、先日も自分の漫画が縦スクロール版になって版元から送られてきた。ここから新しい表現が生まれるのかもしれないし、「やっぱり違うね」となるかもしれない。今はその過渡期にあるのだろう。

(印南 志帆 : 東洋経済 記者)