高山郁夫の若者を輝かせる対話式コーチング〜第5回

 オリックスのリーグ3連覇を陰で支えた投手コーチ・高山郁夫さんに指導論を聞くシリーズ「若者を輝かせるための対話式コーチング」の第5回。今回はソフトバンクコーチ時代の体験をとおして、「二軍投手コーチ」の仕事について語ってもらった。


東浜巨(写真右)と話をするソフトバンクコーチ時代の高山郁夫氏 photo by Sankei Visual

【二軍は3つの層に分かれている】

── 高山さんは2006年に秋山幸二さんの誘いを受けて、ソフトバンクの二軍投手コーチに就任しました。当時のホークスは高山さんの目にどう映りましたか?

高山 私は選手として1995年と1996年にダイエー(当時)に在籍していたので、10年ぶりにチームに戻ってきました。でも、選手時代とはチームの雰囲気がまるで変わっていて、「勝てる集団になっているな」と感じました。

── 1995年はリーグ5位、1996年はリーグ最下位と苦しいチーム状況でした。当時も王監督でしたが、雰囲気は違うのですか?

高山 私の現役時代から、王監督は「この世界は勝つことがすべてだ」と選手の意識を変えることにエネルギーを使っておられました。王監督も、二軍監督の秋山も強烈な負けず嫌いですから。「日本一を目指すのではなく、獲るんだ」と口を酸っぱくしておっしゃっていました。その勝利にこだわる考えが、チーム内に浸透していると感じました。

── 高山さんは二軍投手コーチとして入団しています。二軍コーチはどのような仕事をするのでしょうか。

高山 まずは選手を知ることから始めました。二軍の選手は3つの層に分かれています。すぐに一軍選手と入れ替えられるレベルの選手、中堅どころの選手、体づくりに力を入れたい若手選手。選手たちが現状でどの層にいるのか、データを参考にしながら、秋季キャンプや春季キャンプで観察していました。

── それでは、いきなり技術指導に入ることはないのですか?

高山 ないです。私は知らないものを知ったような顔をして言うのが大嫌いなので(笑)。選手とコミュニケーションをとりながら、彼らの長所と短所を把握していました。

── 二軍には引退間際のベテラン選手もいて、なかには腐ってしまう選手もいると聞きます。扱いが難しい選手もいたのではないでしょうか。

高山 幸い、私が見たなかでは腐ってしまう選手はいませんでした。私と現役時代が重なっていた吉田修司や田之上慶三郎も二軍にいる時期がありましたが、そうしたそぶりは見せませんでしたね。むしろ若手の手本として、練習に取り組んでくれていました。

【変わることを怖がるな】

── 観察はどの段階まで続くのですか?

高山 春季キャンプ中にゲーム形式に入っていくなかで、選手の特徴や課題が見えてきます。「二軍ではいいのに、一軍に呼ばれないのはなぜ?」という選手もいます。そこで「何が足りないのか?」を見ていきます。

── 何が足りないことが多いのでしょうか?

高山 スピードはあるけど、そのスピードボールを生かしきれていない。コントロールや変化球の特殊球が少ない。大事な場面でもストレートでしかカウントをとれず、いわゆる「カウント負け」をしてしまう。打者有利のカウントになると、ストレート一本で待つ外国人選手や主力の長距離打者の餌食になります。一軍で投げるためには、最低限カウントをとれる変化球、特殊球が必要です。

── ストレートだけでは一軍の打者を抑えるのは難しいと。

高山 ファームに多いのは、ストレートのスピードにこだわる投手です。決して悪いことではないのですが、並行してコントロールや変化球を磨いていかないといけません。自分が追い詰められた時に武器がストレートしかないと、ストレートが走っていない日にお手上げになってしまう。それでは継続していい結果を残すのは難しくなります。

── コミュニケーションをとって、その部分を伝えていくのですね。

高山 全体のミーティングではなく、個々で話していきました。若手は経験が足りず、自分のフォームづくりや体づくりの途中でもあるので、すぐにできないのは仕方がありません。ただ、話をしてみると「僕もそう思うんですよね」と頭ではわかっている選手も多いんです。自信がないから「カウントを悪くしたくない」とストレートに頼ってしまう。そうならないためにどうするか、どんな練習をしたほうがいいかという話をしていきます。

── 若い時期に剛速球で活躍した投手でも、次第に球威が落ちてくると丁寧に変化球を使う投手へとモデルチェンジする例も多いですよね。

高山 スタイルや思考を変えられる選手こそ、この世界で長く戦えると感じます。王監督は常におっしゃっていました。「変わることを怖がるな」と。今年は今年、来年は来年、常に新しい自分をつくっていく。進化し続けるために、その時その時で最適な技術を身につけていくことが大事だと。そういったことは私も王監督から学びました。

── 当時はソフトバンクの三軍制(2011年創設/2023年に四軍創設)はありませんでしたが、二軍ではどんな方針があったのでしょうか。

高山 短期間だけ活躍するのではなく、骨太な選手をつくること。そのために体力をつけ、土台をしっかりとつくることに主眼を置いていました。とにかく「強い選手」を求めていました。だから選手にとっては、トレーニングもしんどかったと思いますよ。

── 当時のソフトバンク一軍投手陣の顔ぶれを見てみると、斉藤和巳投手が18勝を挙げるなど大エースとして君臨していましたね。

高山 和巳は私の現役最終年に入団してきたのですが、「あんなにひょろひょろの体だった高校生が、ここまでの大エースになるなんて......」と驚かされました。和巳のすばらしいところは、自分のことよりもチームのことをしっかりと考えられること。普通なら、選手は自分のことで手いっぱいになってしまいますから。だからこそ、無理もしてしまったんじゃないかな......と。

── 斉藤投手は翌2007年から右肩痛との長い戦いを続けた末に、2013年に惜しまれつつ現役引退しています。

高山 2006年も万全ではなかったのでは......と想像します。本当によく頑張ってくれましたし、ホークスの新たなページを開いた偉大な投手でした。今は四軍監督としてチームに尽くしていますが、次なる斉藤和巳を育ててもらいたいですね。

つづく


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した