連載 怪物・江川卓伝〜波乱の大学2年(後編)

前編:江川卓は法政大野球部の理不尽なしごきで怒りは限界に達した>>

 大学2年秋のリーグ戦で事故は起こった。いや、"事件"と言ってもいいのかもしれない。日本球界の至宝とも言える江川卓の肩が、ついに悲鳴をあげてしまったのだ。


大学2年秋のリーグ戦で肩を痛めた江川卓 photo by Sankei Visual

【まさかの登板回避】

 連覇を目指す明治大が開幕カードで東京大に連敗し、秋のリーグ戦は波乱のスタートとなった。

 一方、江川は立教大を6対1の完投勝利で下し、法政大は上々のスタートを切った。だが、つづく慶應大の1回戦に先発した江川は、9回まで0対0の投げ合いで延長に入り、12回に後藤寿彦、堀場秀孝に生まれて初めて連続ホームランを浴び、1対2で敗れる。

 2回戦は法政大が11対5で大勝すると、3回戦は再び江川が先発。しかし調子が上がらず、8対8のまま延長へ。13回に法政大がサヨナラで勝利し、なんとか勝ち点を奪ったが、江川は13回をひとりで投げ抜いた。ちなみに、江川が4点以上取られたのは、高校1年の秋季大会以来のことだった。

 大学に入ってから"省エネ投法"に切り替えた江川とはいえ、2試合で25イニングはさすがに多すぎる。この時すでに魔の手は忍び寄っていたのかもしれない。

 次の東京大戦は危なげなく勝ち点を奪い、優勝に向け、次の早稲田大戦が重要なカードとなった。

 1回戦に先発した江川は初回に3点を奪われ、それが大きく響いて3対4で星を落とす。2回戦は途中からリリーフした江川の好投もあり、8対1で勝利。そして3回戦は満を持して江川が先発した。

 この秋のリーグ戦に限っては、打線の援護がないのか、試合はまたしても延長に入った。好投を続けていた江川だったが、13回に1点を許して1対2で惜敗。早稲田大に敗れたとはいえ、最終カードの明治大から勝ち点を奪えば、優勝の可能性は十分あった。

 そして10月20日、優勝をかけた大一番の明治大戦がやってきた。試合前、いつものようにキャッチボールをしようと右腕を上げたとき、「ズキーン」と重い衝撃が右肩を襲った。江川は肩を押さえ、キャッチボールをやめた。先発を回避し、試合後に病院へと向かった。

 大学関係者はもとより、プロ野球の関係者もショックを隠しきれない。高校1年からの勤続疲労に加え、大学のリーグ戦でも八面六臂の活躍。江川の肩が悲鳴をあげても、なんら不思議ではなかった。

 法政大にとっては"江川頼み"というか、優勝のためにはフル回転してもらうしかなかった。江川自身もそれを意気に感じて、黙々とチームのために投げ続けていた。

 新宿の小守スポーツマッサージ院の治療師・井上竜夫は「肩甲骨周辺の筋肉痛。1週間もすれば元に戻る」とメディアにコメントした。関係者一同はその報告に胸をなでおろした。しかしそれ以降、馴染みの記者たちが江川に「肩の調子はどう?」といくら聞いても、「何ともありません。大丈夫です」の一点張りで、箝口令が敷かれているようだった。必要以上の警戒ぶりは誰の目にも明らかで、重症説が出たほどである。

【筋肉痛ではなく剥離骨折だった】

 のちに明らかになったことだが、この時の筋肉痛はじつは剥離骨折だった。しかもこの剥離骨折以来、肩の万全な状態に二度と戻らなかったと江川は漏らしている。

 診断が出た以上は、肩を錆びつかせないよう、注射を打ちながら安静につとめるなど、万全の治療体制で臨んだ。

 高校時代から登板過多で、とくにセンバツ大会が終わってから毎週末は練習試合で、遠征も多かった。それが4カ月近く続き、夏の県大会、そして甲子園大会。肩がおかしくならないほうが不思議なほど、投げ続けた。

 大学に入ってからも1年秋からエースとして八面六臂の活躍をし、勤続疲労があって当然。むしろ剥離骨折ですんでよかったとさえ思える。

 だが江川自身によれば、剥離骨折以降、右肩の調子は100%戻ることはなかったという。ただ実際は、大学3年の春季リーグから再び主戦として投げているし、プロに入っても4年目の夏頃までは投げ続けていた。いったい、どういうことなのだろうか。

 以前、サッカー元日本代表の小野伸二を取材した時に、「膝のケガ以降、自分のイメージを完全に表現できたことはない。本来の自分に戻ったことは一度もない」と語った言葉を思い出した。1998年に史上最年少の18歳で日本代表入りし、ワールドカップのフランス大会に出場。その翌年のシドニー五輪アジア予選のフィリピン戦で背後からタックルを受けて、左膝靱帯断裂の大ケガを負った。

 その後、懸命なリハビリの末に復帰し、海外のチームでも活躍し。日本人初のUEFAカップのファイナリストとなりタイトルも獲った。2002年日韓、2006年ドイツワールドカップにも主力として出場。サッカーファンに多くの夢を見させてくれた。それでも、小野にとってはかつての自分でなかったという。

 江川も同じだったのではなかろうか。大学3年になってからも圧倒的なピッチングで相手をねじ伏せ、東京六大学史上2位の47勝をマーク。

 その後、プロでも2年目から2年連続最多勝のタイトルを獲得し、3年目には過去に8人しかいない投手五冠(最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、最多完封)も達成。これだけの実績を挙げたにもかかわらず、肩の状態は100%でなかったという。小野と同様、これが天才たる所以なのだろうか。

 結局、2年秋のリーグ戦は9試合に登板して5勝3敗、奪三振70、失点21、防御率2.28と、4年間のなかでは最低の成績で、またしても優勝を逃した。この悔しさをバネに、江川は3年からすさまじいピッチングを繰り広げることになる。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している