松永浩美が語る福本豊 前編

 1968年にドラフト7位で阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)に入団した福本豊氏。1972年には歴代最多のシーズン106盗塁でMVPを獲得したほか、13年連続盗塁王、いずれも歴代1位の通算1065盗塁と115三塁打をマークするなど、球史に残る輝かしい成績を残した。
 
 通算盗塁数の世界記録を1993年まで保持していたこともあり、「世界の盗塁王」とも呼ばれた福本氏は、いったいどんな人物なのか。長らく阪急の主力として活躍し、福本氏と一緒にプレーしていた松永浩美氏にエピソードを聞いた。


プロ通算1065盗塁を記録した福本 photo by Sankei Visual

【まったく"先輩面"をしなかった】

――福本さんと最初に会った時のことを覚えていますか?

松永浩美(以下:松永) 初めてお会いしたのは、私が阪急に入団して2年目のことだったと思います。(阪急の本拠地だった)西宮球場のロッカーからベンチへ向かう途中に素振りなどができる場所があったのですが、何か手伝いをするためにそこでスタンバイしていたんです。その時にたまたま福本さんが通りかかって、「お前、よう練習するらしいな」って声をかけられたんですよ。おそらく、それが最初だったと思います。

――それまでは話す機会がなかった?

松永 そうですね。入団して間もない頃の自分は二軍にいましたし、一軍にいる福本さんとはほとんど会う機会がありませんでしたから。

――松永さんから見て13歳年上の先輩ですが、厳しかったですか?

松永 厳しくはなかったですね。野球界は縦社会なのですが、福本さんに対してはあまりそういうことを感じなかったですし、怒った姿も見たことがありません。たとえば、お酒を飲む場所にご一緒させていただいた時も、「おい、マツ(松永氏の愛称)!しんどかったら途中で帰ってもいいぞ」と言ってくれた。先輩だったら「とことん付き合え」ということもあると思いますが、それがないんです。

 福本さんはハワイアンの音楽や雰囲気が好きなのですが、福本さんの知人が経営されていたハワイアンのお店にもよく連れていっていただきました。ただ、その誘い方も「おい、行くぞ!」ではなく、「一緒に来るか?」というやんわりした感じ。いわゆる"先輩面"をすることがまったくなかったですし、周囲からの批判的な声も聞いたことがありません。

【凡退してベンチに戻ってきたら必ず謝る】

――試合中、ベンチの中ではどんな感じでしたか?

松永 試合中も怒った場面を見たことがありませんし、ベンチ内の雰囲気を大切にしていた印象です。福本さんは現役の晩年、"指定席"の1番ではなく、当時の上田利治監督から9番を任されたことがありました。それでも嫌な顔ひとつ見せずに「はいっ!」と言っていましたからね。

 チャンスで凡退してしまってベンチに戻ってきた時には、上田監督やコーチらの前を通る際に「すいません!」って言うんです。そうすると上田監督が、「フク!次な、次!」と返す。これは、ベンチの雰囲気を悪くしたくないというのが前提。それと、ランナーがスコアリングポジションにいる時に打てなかったら、プロの選手としては、極端な言い方をすれば「お金をもらっている意味がない」ということ。それができなかったことへの反省も含まれていたと思います。

――福本さんのようなスター選手と監督の間でそういったやりとりがあると、ベンチもいい雰囲気を保てそうですね。

松永 先輩の選手が凡退してイライラしてベンチに戻ってきたり、それに対して監督が怒っていたら、若い選手は「監督は怒っているのかな......」と空気を察して縮こまってしまう。ベンチの雰囲気が重たくならないような配慮をする、というのは阪急の伝統なんです。これはプロやアマチュア、競技に関わらず、チームスポーツにおいて大事なことだと思いますよ。

――凡退してしまった時、阪急の選手たちは福本さんのように謝っていたんですか?

松永 そうです。阪急の独特な習慣だと思いますし、ほかの球団はやっていないんじゃないですかね。今はベンチで自分が座っている席の横にバットを置いたりしていますが、当時バットケースは監督がいる場所の近くにあって、戻ってきてバットをしまう時に必ず監督の近くを通っていたんです。その時にみんなが「すいません!」と謝っていましたよ。

【「世界の盗塁王」のスパイクのこだわり】

――福本さんといえば「走塁の達人」というイメージですが、走塁に対するこだわりなどを感じましたか?

松永 キャンプの時に福本さんと同部屋の時があったのですが、福本さんのバッグの中にスパイクが6、7足も入っていたんです。「こんなに持ってるんですか?」と聞いたら、「これはあの球場用のスパイクで、これは違う球場用のスパイクで......」と。「雨が降った時にはグラウンドの土の質が変わるからな」とも言っていましたし、驚きましたね。

――球場ごとにスパイクを履き替えていたということですか?

松永 球場ごとに履き替えていたかまでは聞きませんでしたが、各球場の特性に合わせて対応していましたね。スパイクの歯の位置が違ったり、本数も3本のスパイクがあれば6本のスパイクもあったり。キャンプの時などは、歯の長さも長いのと中ぐらい、短いのと3種類ありましたね。福本さん曰く、「キャンプの過程において使うスパイクが変わる」とのことでした。

やっぱり"世界の福本"は違うなと思いましたよ。スパイクの材質にこだわる選手はいても、土の質でスパイクを履き替える選手はなかなかいないと思います。自分が見た時は6、7足でしたが、試合用と予備を常に持っているということだったので、全部で14、15足は持っていたんじゃないですか。

――松永さんも、いろいろなスパイクを試すことはありましたか?

松永 福本さんを見習って、歯が長いのと短いのと2種類を用意するようになりました。最初のうちは足の筋肉に負担をかけちゃいけないので、太ももとかに負荷がかかりにくい短い歯のスパイクを使って、筋肉が徐々に慣れてきたら長い歯のスパイクで負荷をかけてみたり。最後に、また短い歯のスパイクにしてみたりと、いろいろ試しましたね。

――ちなみに、阪急が巨人と日本シリーズで対戦した際、巨人の川上哲治監督が福本さんの盗塁を阻止するため、一塁ベース付近に水をまくように指示した、という話は本当ですか?

松永 その日本シリーズは、私がプロ入りする前ですね。福本さんと一緒にプレーしていた時は、そういうことはなかったんじゃないかな......。ただ、世の中には「嘘のような本当の話」と「本当のような嘘の話」もありますし、私が知らないだけで、何かあった可能性はありますけどね。

【福本から教わった金言「おいあくま」】

――福本さんから聞いた、印象に残っている言葉などはありますか?

松永 「おいあくま」という言葉ですね。

――どんな意味ですか?

松永 「お」が「驕るな」、「い」が「威張るな」、「あ」が「焦るな」、「く」が「腐るな」、「ま」が「負けるな」。頭文字をとって「おいあくま」です。私が一軍の試合で活躍し始めた頃、福本さんから「先輩から教わった言葉なんやけど、マツに譲るわ」と教えてくれたんです。初めて聞いた時に「いい言葉だな」と思いましたし、現在自分が運営している野球塾でも、子供たちに教えることがあります。

――ちなみに、福本さんといえばユニークで親しみやすい人柄でもお馴染みですが、そういったエピソードもありますか?

松永 遠征で泊まることがあった品川プリンスホテルの中に24時間営業の飲食店があって、福本さんは外に飲みに行った後にホテルに戻ってくると、必ずその店でビールをもう一杯飲んでいました。その時に、女性の店員さんを「ねえちゃん!ねえちゃん!」って呼ぶんですよ。

 僕らは、福本さんに「ねえちゃんと呼ぶのはやめましょうよ。スターの福本豊が、深夜に店員さんを"ねえちゃん"なんて呼んだりしていたら、子供たちから憧れられなくなります。だからやめてください」と注意したことがあります(笑)。福本さんは「そうかぁ?」と言っていましたけどね。

(中編:「ホームランを打ったら罰金」だった? 世界一の盗塁を可能にしたある能力も松永浩美が語った>>)

【プロフィール】
松永浩美(まつなが・ひろみ)

1960年9月27日生まれ、福岡県出身。高校2年時に中退し、1978年に練習生として阪急に入団。1981年に1軍初出場を果たすと、俊足のスイッチヒッターとして活躍した。その後、FA制度の導入を提案し、阪神時代の1993年に自ら日本球界初のFA移籍第1号となってダイエーに移籍。1997年に退団するまで、現役生活で盗塁王1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回などさまざまなタイトルを手にした。メジャーリーグへの挑戦を経て1998年に現役引退。引退後は、小中学生を中心とした野球塾を設立し、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスでもコーチを務めた。2019年にはYouTubeチャンネルも開設するなど活躍の場を広げている。