石井琢朗&プロテニスプレーヤー石井さやか・父娘対談《前編》「男の子だったら間違いなく野球選手になったんじゃないかな」
石井琢朗&石井さやか「父娘」対談(前編)
2024年4月14日、横浜スタジアム──。
祈るような気持ちで彼は、スマートフォンに映し出される数字の並びを凝視していた。試合開始が迫るロッカールームに身を置く一方、心は大阪市にも向いている。そこでは18歳になる娘の石井さやか(ユニバレオ)がプロ初優勝をかけて、テニスコートで戦っていた。
横浜DeNAベイスターズのチーフ打撃兼走塁兼1塁ベースコーチ・石井琢朗が食い入るように見ていたのは、娘の試合のライブスコア。ファイナルセットまでもつれ込んだ熱戦の最後のポイントが娘の名の横に刻まれると、彼は喜びに胸を満たし、そのままLINEで「おめでとう」とメッセージを送った。
石井さやか選手(左)と石井琢朗氏(右)のツーショット photo by Sano Miki
19年前の2005年8月31日──。
この日も彼は同じ横浜スタジアムで、娘誕生の報を待っていた。陣痛の始まった妻を病院へと送り届け、その足で向かった球場。試合中に無事の出産を知った石井は、ホームランをスタンドに叩き込んだ。
その時の新生児は今、プロテニスプレーヤーとしての道を歩み、2012年に引退した父・琢朗は野球の指導者として活動している。
思春期の娘と、威厳ある父。競技こそ異なるも、現役選手とコーチでもあるふたりは、これまでどのような言葉を交わし、ここから先、お互いに何を望むのか?
"日本テニスの聖地"有明コロシアムにて、言葉のラリーで過去を紡ぐ。娘誕生の日、父の引退の日、そして娘の巣立ちの時を──。
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── さやかさんが生まれた日のことを振り返っていただけますか?
琢朗「僕がその時にいたのは、球場ですね。試合前に妻を病院に連れていき、陣痛が続いている状態で球場に行きました。あの日はナイトゲームで、ホームの横浜スタジアムでの広島戦だったかな。生まれたという報告は、試合中に聞きました。
さやかが生まれた日、僕はホームランを打ったんです。横浜スタジアムでホームランを打つと、マスコットキャラクターの"ホッシーくん"人形がもらえるので、そのうしろに『パパはさやかの誕生の8月31日にホームランを打ちました』っていうメッセージを書いてね。まだホッシーくん、持ってくれているよね?」
さやか「うん」
琢朗「もうだいぶ古くなったけれどね」
【始球式が何かも、よくわからずに...】── さやかさんは、お父さんが野球選手なのだと認識したのは、いつ頃でしたか?
さやか「あんまり......私にとっては一応、普通のお父さんなので。現役中のことはあまり知らなかったし、すごい選手だという実感はなかったんです。どうだろう......ちゃんと、そういう人だったんだなと知ったのは、けっこう最近。中学生になった頃かな?」
琢朗「現役時代は知らないもんな。僕が2000本安打を打ったのが2006年なので、その時、さやかはまだ1歳。現役を引退したのが2012年なので、小学校に上がった頃かな?」
さやか「うん、小さい時に引退しちゃったから、現役のころの記憶はぜんぜんない。球場には行ったけれど、どちらかというと横浜より、広島(東洋カープ)に移ってからのほうが記憶に残っているかな。球場に行くのも、友だちも行っているからという感じで、野球はあんまり見ていなかった。でも、引退試合の時は、ちょっと覚えている」
琢朗「マツダスタジアムで、娘ふたりで始球式させてもらって。投げたのは長女だけれど、さやかもお姉ちゃんにくっついてマウンド付近まで行ったけれど......そんなこと、覚えてないよな?」
さやか「あまり覚えてない。始球式が何かも、よくわかっていなかったから(笑)」
── 子どもの頃のさやかさんは、どんなお子さんでしたか?
琢朗「本当に天真爛漫。その四字熟語がそのまんま当てはまる子ども時代でした。男の子だったら間違いなく野球選手になったんじゃないかなっていうくらい、もう、じっとしていられない。すぐにどっかに行っちゃうっていう」
── 子どもにスポーツをさせたいという思いは、やはりあったのですか?
琢朗「スポーツはいろいろとやらせていましたね。水泳や体操も。テニスはどちらかというと、お姉ちゃんがやっているからやりたいみたいな感じだったよな?」
さやか「でも、水泳も好きで、水泳かテニスか選ぶ......みたいな感じだったんですけど。そこでなんでテニスになったのか、ちょっと自分でも覚えていない(笑)。たぶん、広島に引っ越したことが大きかったのかな」
【食事のことは妻のほうが厳しかった】琢朗「僕が引退して広島のコーチになったタイミングで、家族で一時期、広島に移ったんです。その時に住んでいたのが広島広域公園近くの、1994年アジア大会の選手村の跡地でした。だからもう、マンションの下一面がズラーっとテニスコート。もう、テニスをやれっていう環境だったんです。そこで地域のチームに姉とふたりで所属したんだけれど、別々のチームに入るという(笑)」
さやか「お姉ちゃんのチームとは、私は合わなかったから。お姉ちゃんが入っているチームは、すごく走らされるチームで、でも私は走るのが大嫌いだった(笑)。楽しくできるほうのチームに入っていました」
琢朗「お姉ちゃんのほうが几帳面だからね、チーム練習にも真面目に取り組んでいた。さやかは、隙あらば試合がしたい。自由奔放な性格なので、そういう自由なほうに入っていた感じでしたね」
さやか「でも、練習はちゃんとやっていましたよ。走るのが嫌いなだけで(笑)」
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娘のことはずっと笑顔で話してくれた石井琢朗氏 photo by Sano Miki
幼少期から活発だったという石井家の次女は、すくすくと育ち、身長ではすでに父親越えを果たした。そのような恵まれた体躯や高い運動能力は、石井家の教育方針や、琢朗氏による英才教育に由来するのだろうか?
── 琢朗さんは、さやかさんが幼い頃からアスリートに向いていると感じていたのでしょうか?
琢朗「どうだったかな......」
さやか「でも、私は昔から運動神経、よかったですよ。この前、アルバムをお母さんと一緒に見ていた時、お母さんに『さやちゃんはね、鉄棒にずっとぶら下がっていられたんだよ』って言われました。小さい頃から動くのが得意だったとも言っていたので......運動神経はもともといいんです(笑)」
琢朗「まだ、テニスに生かされてないってことだなぁ(笑)」
さやか「はいはい、そうですね」
── でも身長は現在175cmで、もうお父さんより上ですよね? 家での食事なども気をつけていたのでしょうか?
琢朗「そこは僕より、妻のほうが厳しかったです。食事面でも、生活面に関しても。僕が現役の時、彼女は栄養の勉強などもかなりしていたので、その知識を子育てにも役立てていました。食事の内容や栄養の取り方にも、すごく気を遣ってくれていました。寝る時間にしても、けっこう細かかったと思います。『早く寝なさい』っていうのは、よく言われていたよね?」
【早いうちから海外に行かせたかった】さやか「私はそこまで、食べるものを制限されていたとは感じなかったけれど、でも、たくさん食べろっていうのはけっこう言われていました」
── 琢朗さんは子どもたちに、アスリートになってほしいと思っていたのでしょうか? あるいは厳しさを知るだけに、プロにはならないほうがいいと思っていたのでしょうか?
琢朗「これはさやかだけでなく、長女に対してもそうですが、やはりどうしても普通の人に比べたら、見る目が厳しくなってしまうんです。練習にしても、手を抜いたりすると、『やるならちゃんとやれ!』ってなっちゃいます。
だから、さやかにも小さい時から、やるのなら本格的にプロを目指しなさい、くらいなことを言っていました。最終的には、勉強かテニスか、どっちかっていう感じだったのかな」
さやか「私は練習が嫌いだけれど、試合は大好きだった。だから練習も、試合形式だったらちゃんと集中してやるんです。でも、球出しとかの反復練習は嫌いで......。それをしっかりやれって言われても『つまらない』みたいな感じだったんです。そこに関しては反抗的だったけれど、最近はもちろんちゃんとやっていますし、練習の大切さもわかっているけれど......」
琢朗「昔はもう、口うるさいって思っていただろうね」
さやか「ねー」
── テニスは最終的に、世界が戦いの舞台となる競技です。今、さやかさんは米国フロリダ州のIMGアカデミーにいますが、琢朗さんは「いつか娘を世界に送り出さなくては」と思っていたのでしょうか?
琢朗「もちろん、いつでも羽ばたいていってください、という感じでした。早く親元から離れねぇかなって(笑)。さやかもそれを望んでいたと思うし、そもそも目指しているところが、ウインブルドンでの優勝。富士山ではなくエベレストを目指しているので、だったら拠点は日本じゃないでしょうとは思っていました。
本人もけっこう貪欲なので、海外に行って帰ってくると、モチベーションも上がっているようだった。そういう気持ちは常に彼女のなかで持っているでしょうし、僕はやっぱり早いうちから、そういうところに行かせたいなと思っていました」
【さやかの優勝は、本当にうれしかった】── さやかさんは、親元を離れることに寂しさはなかった?
さやか「まったく!」
琢朗「もう、羽を広げて、伸び伸びと!」
さやか「うんうん」
琢朗「子どもの頃から、海外にどんどん連れていってくれるコーチたちに見てもらっていたので。そこで外国に行ってトラウマになったりせず、逆に『海外すごい!』という感じで帰ってきたから、よけいに思いましたね。この子は日本にいちゃダメだって」
さやか「海外に行っているほうが楽しかったですね」
琢朗「僕らも今のほうがラクですよ。洗濯物と食事とか、いろいろ考えなくて済むから(笑)」
さやか「でもぜんぜん、お母さんには信用されていないです。いつも『ちゃんと食べている?』とか連絡がくるので。家にいる時より、海外にいるほうがちゃんと自分でやるんですよ。だからそんな心配されなくても......と思うんですけど。
やっぱり見ていないと、親は心配みたい。『大丈夫? ちゃんとやっている?』みたいにお母さんは聞いてくるんです。コレ(と言って琢朗氏を指差す)は気にしてないと思いますけど」
琢朗「コレ呼ばわりかい!」
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ふたりの会話の節々から仲の良さが感じられた photo by Sano Miki
威風堂々と語る父親と対照的に、幼さの残る面差しに思春期の初々しさを宿す娘は、父親と並んで取材を受けることに、照れくささを隠せない様子。
「まだ反抗期?」
そう尋ねると、「ずーっとです!」の快活な言葉が返ってきた。
さやかさんが練習のため席を離れると、その背を見送る琢朗氏が、「LINEでは、やっと少し、いろいろと話してくれるようになったんですけれどね」と小さな笑みをこぼす。
「さやかの優勝は、本当にうれしかった。たぶん、本人より喜んでいたと思います。でも、目指す場所はここではないので、満足してほしくはないですしね」
父親として、そしてアスリートの先達として、娘と真摯に向き合ってきた琢朗氏の想いが、遠くを見つめる横顔に浮かんだ。
(後編につづく)
◆石井琢朗&石井さやか対談・後編>>「いつまで経っても『お父さんの娘』の立場じゃ悔しいじゃないですか」
【profile】
石井琢朗(いしい・たくろう)
1970年8月25日生まれ、栃木県佐野市出身。1988年のオフにドラフト外で足利工高から横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に投手として入団。1992年から内野手に転向し、最多安打2回、盗塁王4回に輝く。2006年に2000安打を達成し、2008年に広島東洋カープに移籍して2012年に現役引退。指導者として広島→ヤクルト→巨人でコーチを務め、現在は横浜DeNAチーフ打撃兼走塁兼1塁ベースコーチ。身長174cm、体重82kg。
石井さやか(いしい・さやか)
2005年8月31日生まれ、東京都渋谷区出身。プロ野球選手の石井琢朗の次女として生まれ、5歳からテニスを始める。ジュニアで数々の好成績を収め、2022年11月の国別対抗戦ビリージーンキングカップで初の日本代表に選出される。2023年全豪オープンジュニアでは女子単複ベスト4となり、同年3月にプロ転向。2024年4月の富士薬品セイムスウィメンズカップでプロ初優勝を果たす。ユニバレオ所属。身長175cm、体重68kg。