高山郁夫の若者を輝かせる対話式コーチング〜第3回

 オリックス・バファローズのリーグ3連覇を支えた名投手コーチ・高山郁夫さん。ソフトバンク投手コーチ時代には攝津正、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩の「SBM」を確立するなど投手陣を整備。オリックスでも対話を重視した指導法で、山本由伸(現ドジャース)ら個性豊かな投手陣をサポートした。

 高山さんは昨季限りで惜しまれつつも18年にわたる単身赴任生活に区切りをつけ、現在は自宅のある都内を中心に活動している。その指導理念に迫るシリーズ企画第3回は、高山さん自身の苦い体験やジュニア期の指導の難しさについて聞いた。


現役時代はケガに泣かされ続けた高山郁夫氏 photo by Sankei Visual

【選手にケガをしてほしくない】

── 高山さんの投手指導は「選手の故障を防ぐ」という観点が大きいと感じます。

高山 それは私自身の体験が大きいですね。現役時代に致命的なケガをしてしまったので。

── どのようなケガだったのですか?

高山 右足裏の拇指球内にある趾骨(しこつ)という骨が完全に砕けてしまいました。足の裏にずっと画鋲(がびょう)が刺さっているような感覚です。

── 想像するだけで痛そうです。

高山 高校3年春のセンバツでケガをして以来、常に痛みがありました。ゆっくり歩く程度なら大丈夫なのですが、走ったり投げたりすれば痛む。足の側面から切開して骨を削る手術を受けたんですけど、ピッチングをすると手術跡の縫った部分が痛んでプレートを強く蹴ることができない。今まで速いボールを武器にしていたのに、投げられなくなって。もう目の前が真っ暗になりましたね。

── 高山さんは秋田商を卒業後、プリンスホテルを経て1984年ドラフト3位指名を受けて西武に入団。広島、ダイエー(現ソフトバンク)時代を含めて12年の現役生活で92登板、12勝12敗の成績を挙げています。でも、万全とはほど遠い状態で投げていたのですね。

高山 ケガさえなければいい成績を残せたとは決して思いませんし、ケガを含めての実力だと思っています。でも、スピードに関して「絶対に負けないぞ」とこだわりを持って、これから......という段階で投げられなくなってしまって。そうなるとメンタルも落ち込んで、楽しくないんですよ。勝ってもごまかしの投球しかできず、うれしいんですけど心の底から喜べないんです。

── プロでは技巧派右腕として投げていた背景に、そんな思いがあったのですね。

高山 思うように足を使えないと、そのうちにヒジ、肩、腰、足首、ヒザ......とだんだん痛んでいって、上半身だけでごまかすような、理にかなっていない投げ方にするしかありませんでした。そうなると、充実感がないんですよね。自分が指導者になった時、「選手にケガをしてほしくない」という思いが根本にありました。

── とくに気をつけているのは、どんな部分でしょうか?

高山 投手は、とくに再現性が求められるポジションです。(山本)由伸のプロ1年目のように「中10日を空けないと回復しない」といった選手を見ると心配になりますね。それはメカニズムやフィジカルの問題なのか、投げている球種の問題なのか、注意深く見るようにしています。

【貴重だった中学野球の指導経験】

── 高山さんは1996年に現役を引退し、それから2006年にソフトバンクの投手コーチとしてNPBの現場に復帰するまで9年間のブランクがありました。プロ球団のコーチを務めるとは、思ってもみなかったのでしょうか。

高山 そうですね。プロで活躍した人間が現場に残るのが当たり前と思っていましたし、私自身は生きていくために東京で不動産関係の仕事に就きました。

── その後、ポニーリーグのチームで中学生を指導したそうですね?

高山 引退して2年ほど経ってから、不動産関係の知り合いの方から「小平ポニーズを教えに来てくれよ」と言われまして。私は秋田で、その方が山形と東北出身者というつながりもありました。

── 中学生の指導はいかがでしたか?

高山 勉強になることばかりで、この時の経験がその後のコーチ人生に大きく生かされたと感じています。とくに齋藤泰勝監督(現・総監督)と出会えて、大きな影響を受けましたね。

── どんな監督なのでしょうか?

高山 第一印象は「こわもての頑固親父」(笑)。正直言って、最初はグラウンドで大声を張り上げていて、「選手は萎縮しないのかな?」と思ってしまいました。

── いわゆる「昭和」の匂いがしますね。

高山 でも、選手たちの様子を見ると、なぜかみんな楽しそうに、のびのびと野球をやっているんです。「どうしてだろう?」と思って観察していると、齋藤監督は選手を叱ったあとでも必ずいいところを言ってフォローしていたんです。怒ったあとに時間差で「あのプレーはよかったよ」とひと言添える。こうした積み重ねで、選手が委縮することなく楽しそうに野球をできるんだなと感じました。

── ただ厳しいだけではなく、子どもたちをその気にさせる言葉かけをしていたわけですね。

高山 子どもの心を潰さない指導をしていました。心を動かさないと人は動かない。小平ポニーズで齋藤監督や選手たちと出会って、そのことを学びました。

── 元プロ野球選手の高山さんであっても、中学野球の指導者や選手から学ぶ点があったのですね。

高山 齋藤監督はベテランの野球指導者なんですけど、ご自身のプレー経験はないそうです。でも、技術論はしっかり確立されていますし、何より研究熱心でした。練習が終わると、いつも行きつけの寿司屋で野球談議が始まります。齋藤監督から野球に関するさまざまなことを聞かれて、私も自分が今まで勉強してきたことをお話しさせてもらっていました。中学野球の世界には、こんなにも情熱を持っている人がいるんだな......と強烈な体験でしたね。

── 高山さんも感化される部分があった。

高山 それはありますね。ただ偉そうにふんぞり返るような指導者ではなくて、何歳になっても熱意を持って勉強し続ける方でしたから。挨拶や返事など、細かな部分も子どもたちができるようになるまで、しっかりと人間教育していました。

【ダメなものはダメと言わないといけない】

── 今は「ハラスメント」が過剰に叫ばれているせいか、指導者が細かな部分を指摘しづらい風潮も感じます。

高山 こういう時代ですから......私もあらためて感じました。でも、ダメなものはダメと言わないといけないと私は思います。NPBのコーチ時代、とにかく選手とコミュニケーションをとることを大事にしていましたが、時には耳の痛いことを言わなければならないこともあります。そこで躊躇せず、流さずに言うべきことは言うようにしていました。

── どんな部分を指摘することが多かったのでしょうか?

高山 活躍しているとき、「勝ったからいい」ではなく、チームプレーができていなければ指摘していました。「ファーストのベースカバーに遅れたよね」とか「バックアップを怠ったよね」と。技術の高い、低いではなく、誰でも意識すればできることですからね。そこはエースだろうと若手だろうと、同じように接してきたつもりです。ただし、叱る時はなるべく大勢の前ではなく、個別で伝えるようにしていました。もちろん、齋藤監督のようにフォローの言葉も忘れないようにして。

── もし中学野球の指導経験がなかったら、高山さんはどんなコーチになっていたのでしょうか。

高山 また違ったスタイルになっていたのでしょうね。私にとっては、すごく勉強になった時間でした。今も齋藤監督とは付き合いが続いていますし、小平ポニーズにはアドバイザーとしてかかわらせてもらっていますよ。

── 中学生の時期に、とくにやっておいたほうがいい練習はありますか?

高山 野球は肩甲骨と股関節が大事。これは中学生だろうとプロだろうと変わりません。中学生の時期に肩甲骨、股関節の可動域を広げておくと将来につながっていきます。小平ポニーズでもウォーミングアップから、そのストレッチやトレーニングのメニューを入れていました。

── 次回では高山さんがNPBに復帰するきっかけになった、独立リーグでの指導についてお聞きします。

高山 よろしくお願いします。

つづく


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した