小笠原道大が明かす巨人でプレーすることの重圧 「チームが負けると、得点機に凡退した写真が新聞の一面で使われる」
小笠原道大インタビュー(後編)
前編:高校時代ホームラン0本の小笠原道大がプロ球界屈指の強打者になるまで>>
日本ハムでの日本一を置き土産に、2006年オフにFA宣言をして巨人に移籍した小笠原道大氏。移籍1年目から存在感を示し、プロ野球史上初となるリーグをまたいでの2年連続MVPを獲得。その後も、2011年に通算2000安打を達成し、14年から2年間は中日でプレーし「代打の切り札」として活躍した。小笠原氏にセ・パの野球の違い、生涯のライバルについて語ってもらった。
巨人移籍1年目からMVPの活躍を見せた小笠原道大氏 photo by Sankei Visual
── 2007年から巨人でプレーし、いきなりMVPの活躍。リーグをまたいで2年連続のMVPは史上初です。パ・リーグとセ・リーグで野球の違いを感じましたか。
小笠原 「柔のセ、剛のパ」と表現されることもありましたが、それはチームによって、選手によって、状況によっても違います。だからセ・リーグに移籍しても、パ・リーグ時代とやっていたことは同じです。それがうまくはまって、2002年以来となる5年ぶりの優勝への評価をいただいて、MVPをいただけたのだと思います。
── 過去、巨人にFA移籍した選手はプレシャーに苦しみ、自分の力を発揮できない選手もいました。しかし小笠原さんはMVPを獲得し、3年連続リーグ制覇に貢献されました。
小笠原 優勝はひとりではできないですし、それはチーム全員が力を合わせてのことです。ただ、自分なりに頑張ったと思います。FA移籍する時点で、プレッシャーのなかでの活躍を求められているわけです。それはプロ1年目のプレッシャーとある意味一緒ですが、プロの世界で10年間やってきた経験値がありました。ただチームが負けると、得点機に凡退した写真が新聞の一面で使われたりしました。言うなれば、常に打たなくてはいけないということは感じました。
── それだけ巨人のクリーンアップは、周囲からの要求と注目度が高かったのですね。
小笠原 負けたときは自分たちが"壁"になって、若い選手たちを守ってあげなければという責任感もありました。
── 通算1736試合での2000安打は、川上哲治さん、長嶋茂雄さん、張本勲さんに次ぐ史上4番目の早さでの達成でした。
小笠原 記録達成に向けて、練習のときから私の一挙手一投足に合わせて、メディアが移動します。初めて告白しますが、正直、それが大変でしたね。もちろん意識しますし、「早くこの空気を振り払いたい」「早く達成してラクになりたい」と思っていました。だから、少々強引に打ちにいって、余計にヒットが出なかったり......。今となってはいい思い出です。
【現役時代で一番の思い出は?】── 通算2000本安打をすでに達成したのに、中日に移籍したということは、やり残したことがあったということですか?
小笠原 巨人の7年間のうち、最後の2年はあまり試合に出ていませんでした。いろいろな引き際があるとは思うのですが、当時40歳。「このまま終われない。もうひと花咲かせたい」という思いはありました。チャンスをくれたのが中日でした。
── その思いは成就されたわけですね。
小笠原 中日では谷繁(元信)プレーイングマネージャーが、いい場面に代打で使ってくれました。「代打、小笠原」のコールがされたときのスタンドの盛り上がりには鳥肌が立ちました。42歳になって、さすがに体にもガタがきて......中日での2年間はいい時間でした。
── 19年間の現役生活で通算1992試合に出場して、2120安打、打率.310、378本塁打、1169打点、63盗塁というすばらしい成績を残されました。
小笠原 自身の現役生活に、100%満足という選手はいないんじゃないですかね。暗中模索のプロ1年目のことを思えばよくやったと思いますが、誰しも絶対に悔いはあるはずです。ひとりのバットマンとしては、通算成績の何かの部門で、ひとつも"てっぺん"を獲っていません。安堵した時点で、その先の景色は見えませんから。
── 現役生活のなかで、一番思い出に残っていることは何ですか?
小笠原 一番の思い出は、やはり1997年5月10日に石井丈裕投手から打った"プロ初安打"ですかね。落合(博満)さんが記念のボールをもらってくれて、試合終了後に私に渡してくれたんです。それともうひとつは、2015年9月21日の中日と巨人の試合です。巨人が勝利したのですが、ヒーローインタビューの時間を原(辰徳)監督が私の引退挨拶のためにくださり、両チームの選手が胴上げをしてくれました。もう感謝しかありません。日本ハムで育てていただき、巨人で成長させていただき、中日で締めくくらせていただき、幸せなプロ野球人生でした。
【昭和48年生まれのライバルたち】── 対戦したなかで印象に残っている投手は?
小笠原 多くの好投手と対戦してきましたが、楽しかったのは斉藤和巳です。192センチの長身から投げ下ろすボールは迫力があって、一級品でした。ストレート、フォーク、カーブ、スライダーとすべてが決め球になる。あと、松坂大輔のスライダーとほんの少しだけ真横に曲がる150キロのカットボールはすごかったです。
── セ・リーグの投手はどうですか?
小笠原 上原浩治は、ベース手前で落ちるフォークをホームランにしたら、次の打席ではボール2個分手前にフォークを落としてきました。フォークを自由自在に操っていましたね。川上憲伸は150キロのストレートに加え、カットボールが絶品でした。あと、三浦大輔、黒木知宏らをはじめ、同い年の"昭和48年会"は好選手が多くて、切磋琢磨してきました。
── 打者はいかがですか。
小笠原 前田智徳さんは現役時代、独特の空気感を持っていました。私が中日の二軍監督時代に取材に来ていただき、「下半身を大事にするいい練習をやっているね」と言われ、自分がやってきたことが間違いではないと確信しました。また "昭和48年会"は、打者でも日米で活躍したイチロー、三冠王を獲った松中信彦、通算404本塁打の中村紀洋など錚々たる顔ぶれで、彼らの活躍は刺激になりました。
── 現役19年間で5人の監督に仕えましたが、それぞれどんな印象をお持ちですか。
小笠原 上田利治監督(1997〜99年)は、私を見出してくれた方。2番打者として、思い切りのびのびと打たせてくれました。大島康徳監督(2000〜02年)は、私をさらに大きく、確固たるものにしてくれました。トレイ・ヒルマン監督(2003〜06年)は、アメリカ野球を取り入れ、日本一を味わわせてくれました。原辰徳監督(2007〜13年)は、経験値が円熟味を増すように導いてくれました。谷繁元信監督(2014〜15年)は、代打の切り札として使っていただき、花道をつくってくれました。
── 指導者としては、中日の二軍監督、日本ハムの一軍ヘッド兼打撃コーチ、巨人の二軍、三軍打撃コーチを経験されました。
小笠原 先(一軍監督)に進むには、すべて必要な経験だったと思います。中日二軍監督時代は、育成選手、一軍準備選手、投手面において、総合的にチーム運営を勉強できました。日本ハムのコーチ時代は、打撃の技術指導に加え、データを駆使して栗山英樹監督の考えるチーム戦略を支える2年間でした。巨人時代は、一軍昇格と定着のためには「どういう育成が必要か」を考えていました。
── 指導者生活の8年で得た、現段階での「指導者論」「小笠原野球」を教えてください。
小笠原 大前提は「優勝を目指して勝つ」野球です。そこに選手のキャラクターを生かし、ファンと一緒に盛り上がれる「魅力あるチームづくり」をしていくことですね。これからの評論家生活で、さらに知識を増やしていきたいと考えています。
小笠原道大(おがさはら・みちひろ)/1973年10月25日、千葉県生まれ。暁星国際高からNTT関東を経て、1996年のドラフトで日本ハムから3位で指名され入団。99年に「バントをしない2番打者」としてレギュラーに定着。2002、03年には2年連続して首位打者に輝いた。06年には本塁打王、打点王の二冠に輝き、MVPを獲得。チームも日本一を達成した。同年オフにFAで巨人に移籍。巨人1年目の07年に打率.313、31本塁打、88打点の活躍で優勝に貢献。史上初めてリーグをまたいでの2年連続MVPに輝いた。13年オフに中日に移籍し、おもに代打として活躍。15年に現役を引退した。引退後は中日二軍監督、日本ハムのヘッド兼打撃コーチ、巨人二軍コーチ、三軍コーチを歴任。23年オフに巨人を退任し、現在は解説者として活躍中