松井大輔がプロ生活23年を振り返る「ちゃんと話すと、本1冊でも収まらないよ(笑)」
松井大輔インタビュー(前編)
「現役生活23年とセカンドキャリア」
2024年2月22日。元日本代表の松井大輔が、ついに23年にわたる現役生活にピリオドを打つことを発表した。
京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)、ル・マン、サンテティエンヌ、グルノーブル(以上フランス)、トム・トムスク(ロシア)、ディジョン(フランス)、スラヴィア・ソフィア(ブルガリア)、レヒア・グダニスク(ポーランド)、ジュビロ磐田、オドラ・オポーレ(ポーランド)、横浜FC、サイゴンFC(ベトナム)、Y.S.C.C.横浜(フットサル&J3)──。
2000年に鹿児島実業高校を卒業してプロになって以来、実に6カ国13クラブでプレーした松井は、自身のキャリアをどのように振り返るのか。現在取り組んでいるセカンドキャリアのことも含め、その胸の内を語ってもらった。
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松井大輔に引退発表から2カ月経った今の心境を聞いた photo by Koreeda Ukyo
── 23年間の現役生活、お疲れ様でした。これまで長きにわたってファンを楽しませていただき、ありがとうございました。引退発表から約2カ月が経過しましたが、あらためて引退を決断するまでの経緯から教えてください。
「去年の9月くらいから考え始めていたんですが、まだその頃はフットサルを続けたいという気持ちがあったんです。ただ、今年の全日本フットサル選手権(2〜3月)の選手登録ができないことがわかって、そこで本格的に引退を決めたという感じですね。
もうこの年齢になると、一度プレーから離れてしまうと体を作り直すのに2〜3カ月はかかってしまうので、さすがにそれはもう無理だって(笑)。それが10月くらいです」
── 引退を発表するまでに少し時間がかかりましたが、何か理由があったんですか?
「いや、単純にタイミングの問題だけです。去年の段階で伸二くん(小野伸二)が発表していて、1月にヤットさん(遠藤保仁)が引退したので、そろそろ僕の番かなって。それと元日に能登半島地震もありましたし、だから2月になってから発表しようかなって。
ただ、1月はゴルフばかりしていたので、さすがに嫁さんから『何ゴルフばっかりやってるの? 仕事は?』って突っ込まれちゃいまして(笑)。で、とりあえず引退を発表することから始めましょうと。ちょうど横浜FCの仕事が決まったこともありましたしね」
【京都時代は本当に充実した毎日でした】── ケガでもう体がボロボロになったというわけではなかったんですね。
「2〜3カ月かけて体を作り直せば、まだ全然プレーはできますよ。ただ、もうその気持ちになれなかった。特に7〜9月の夏の時期のことを考えると、やっぱりもう厳しい。
僕もそうでしたが、多くのベテランが40歳を境に引退するパターンが多いのは、あの夏の暑さに適応できなくなるからなんだと思います。しかも最近のサッカーは、どんどん選手がアスリート化しているので、その影響もありますね」
── 現在の仕事の話をうかがう前に、現役時代を振り返っていただきたいと思います。
「ひとつひとつをちゃんと話すと、本1冊でも収まらないと思いますよ(笑)。それくらい、いろいろなことがギュウ詰めになった23年間だったと感じています」
── ですね(笑)。2000年に京都に入団した頃、当時18歳の松井大輔は40歳を過ぎても現役を続けていると想像していましたか?
「さすがに当時は引退のことまで考えていませんでしたが、南アフリカワールドカップ(2010年)のあとは『30歳なかばくらいに引退するんだろうな』って想像していましたね」
── 高校を卒業してすぐにプロ入りして、初年度からJ1で22試合に出場していますよね。プロの壁にぶち当たることはなかったのですか?
「最初はプレッシャーの速さや当たりの激しさに違いを感じて、いわゆるプロの洗礼を浴びましたけど、試合に出ているうちにだんだん慣れていった感じでしたね。
それと、当時監督だった加茂(周)さん、コーチのゲルト(・エンゲルス)さんは、若い選手を育てようと思っていてくれたのか、僕を試合で使い続けてくれました。ミスをすることも多かったけど、試合に使い続けてくれたことによって成長することができたと思います。
しかも、当時の京都にはカズさん(三浦知良)、重さん(望月重良)、平野さん(平野孝)という先輩がいて、タレントも揃っていたから毎日が刺激的で、練習に行くのも楽しかった。特にカズさんとは毎日のように一緒にいさせてもらって、プロとは何かを教えてもらいました。
まだプロになりきれていない自分にとっては、その教えとのギャップを埋めていく作業がすごく楽しくて、京都時代は本当に充実した毎日でしたね」
【サンテティエンヌ時代からは氷河期です】── キャリアの節目となったのは2000年でした。京都で4年半を過ごしてアテネ五輪に出場し、初めての海外移籍となりましたが、その選択に迷いはありませんでしたか?
「当時はすでに英さん(中田英寿)や伸二くんが海外で活躍していたのを見ていたし、僕も早く海外に行きたいと考えていたので、迷いはなかったです。そもそも僕は中学の作文で『将来は海外に住みたい』と書いていたくらいなので(笑)。だから、フランスに向かう飛行機のなかでは、自分のプレーがどこまで通用するのか、もうワクワクしかなかったですね。
実際、最初にル・マンでプレーした時も、適応するのにあまり苦労した思い出はありませんし、技術の部分で劣っているとも感じませんでした。ただ、向こうは評価基準がテクニックではなく戦いの部分だったりするので、そこは意識しながら合わせつつ、テクニックという自分の武器もそのなかで貫いていこうと考えてプレーしていましたね」
── その後10年にわたって海外でプレーしたわけですが、今振り返って、一番充実していた時期はいつでしたか?
「やっぱり初年度でリーグ・ドゥからリーグ・アンに昇格したル・マン時代ですね。チームとして常に上位だったわけではありませんでしたが、最後のシーズンは9位まで食い込みましたし、リーグカップの準々決勝では自分のゴールで初めてリヨンに勝つこともできた。それも含めて、あの4年間はすごく充実していましたね。
逆に、その次のサンテティエンヌ時代からは、僕にとっての氷河期です(笑)」
── 個人的には、2010年の南アフリカワールドカップで活躍したので、あそこからキャリアとしてステップアップしていくと見ていました。
「ええ、僕的にもそう考えていましたが、現実は......。
サンテティエンヌ時代にいろいろ悩んで苦労して、1年でグルノーブルに移籍して、目標のワールドカップに出場したことで少し気持ちが晴れた感じはありましたけど、その後にうまく移籍ができなくて。だから、その後のトム・トムスクからスラヴィア・ソフィアまでの3年は、メンタル的にもだんだん苦しくなった時期でした。あの頃は本当に苦労しましたね」
【それまでの体のつくり方ではもうダメ】── ディジョン時代(2011-2012シーズン)は、リーグ・アンでのプレーは開幕直後の数試合だけで、あとはBチームに回されて4部リーグ(アマチュア)でプレーさせられました。コンディション的にも一番よくなかった時期だったのでは?
「ケガもしましたしね。でも、監督の構想外となったところで、ちょうど子どもが生まれた時期だったので、フランス以外のクラブに移籍もできなかった。もうディジョンに留まるしか選択肢はなくて、とにかく耐える時期でしたね。
それと、2011年の冬にトム・トムスクからグルノーブルに戻って、その夏にディジョンに移籍するんですけど、その頃に自分の体が転換期を迎えていたんです。ちょうど30歳を過ぎた頃ですが、今思えば、体の変化に合わせて調整方法を変える必要がありました。
もうベテランの域に入っていたのに、ディジョンでは移籍のタイミング的に開幕前のキャンプに参加できなかったにもかかわらず、体づくりをしないまま試合に出たので、体は動かないし、すぐにケガもしてしまった。1カ月くらい時間をかけて体をつくっていれば違ったのに......。あの時、それまでの体のつくり方ではもうダメだと気づかされました」
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華やかなイメージのある松井のキャリアだが、実はサンテティエンヌ時代以降は苦労の連続だった。そして第2の故郷とも言えるフランスを離れ、2012年にブルガリア、2013年にポーランドでプレーした松井は、ついに2014年、10年の海外キャリアにピリオドを打って帰国を決断。心機一転、ジュビロ磐田に新天地を求めたのだった。
(中編につづく)
◆松井大輔・中編>>サッカー人生の氷河期から脱出できたキッカケは「またカズさん」
【profile】
松井大輔(まつい・だいすけ)
1981年5月11日生まれ、京都府京都市出身。2000年に鹿児島実業高から京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)に加入。その後、ル・マン→サンテティエンヌ→グルノーブル→トム・トムスク→グルノーブル→ディジョン→スラヴィア・ソフィア→レヒア・グダニスク→ジュビロ磐田→オドラ・オポーレ→横浜FC→サイゴンFC→Y.S.C.C.横浜でプレーし、2024年2月に現役引退を発表。日本代表31試合1得点。2004年アテネ五輪、2010年南アフリカW杯出場。ポジション=MF。身長175cm、体重66kg。