日本代表アジアカップ戦記(2)

(1)サッカー日本代表の優勝をイメージできなかったアジアカップ 予選落ちを繰り返した80年代から、頂点に上り詰めるまで 

 2004年のアジアカップは、ユーロ2004とアテネ五輪という夏の2大イベントの間隙を縫うように、中国の4都市で開催された。

 結果を言えば日本の優勝。決勝で地元中国を破り、1992年大会、2000年大会に続く3度目の優勝を飾った。

 監督は2002年日韓共催W杯後、フィリップ・トルシエの後任に就いたジーコ。その2年後に開催されたドイツW杯は、ご承知のとおりグループリーグ最下位に終わっている。4年間の前半は右肩上がりだったが、後半は徐々に失速していった。それは優勝したこのアジアカップの前と後という区分けになる。

 前回2000年のレバノン大会同様、順当な優勝だった。しかも、小野伸二、高原直泰、中田英寿、稲本潤一、柳沢敦ら、欧州でプレーする主力の多くを欠きながらの優勝である。選手の質が右肩上がりであることは誰の目にも明らかだった。この大会に欧州組で出場した主な選手は中村俊輔、藤田俊哉、鈴木隆行。小笠原満男、中田浩二らもこの直後、欧州でプレーしているので、代表クラスだけでも欧州組は当時、10人以上に及んでいた。

 欧州組が戻ってくる場合は4−2−2−2、国内組中心の時は3−4−1−2。ジーコはこの頃から布陣を使い分けるようになっていた。3−4−1−2はトルシエが日本に持ち込んだいわゆるフラット3。中盤ボックス型の4−2−2−2との二択だったが、ともに前からプレスが掛かりにくい布陣である。実際、日本の最終ライン付近には、多くの選手がダブついていた。相手FW2人に対して5人で構えることも珍しくなかった。守備的サッカーという名の非効率サッカーに陥っていた。

 それでもアジアカップで優勝することができた。繰り返すがそれは、日本が選手の質でアジアのトップグループにいることを意味していた。だが、ジーコジャパンの後半の2年では、そうした戦術面の問題が露わになっていく。迎えた本番、2006年ドイツW杯ではグループリーグ最下位に終わった。

 その初戦で日本が対戦し、1−3で敗れた相手のオーストラリアは、オセアニアを離脱。アジア枠に参入していた。初めて臨んだアジアカップ2007年大会では、準々決勝で日本と対戦。1−1、延長、PK戦に及んだ熱戦は日本に軍配が挙がった。

【PK戦を見られなかったオシム】

 時の日本代表監督イビチャ・オシムは「心臓に悪い」と、PK戦の様子を見ることができず、ベンチの裏でピッチに背を向けていた。

 サッカー的には中盤ボックス型4−2−2−2か3−4−1−2かの2択だったこれまでとは一変。オシムは4−2−3−1を基本線に据えて戦った。ウイング不在のサッカーに別れを告げようとした。だが、布陣に適したタレントがいなかった。欧州では当たり前になっていたウイングつきのサッカーが日本で浸透しない現実を筆者が嘆くと、「布陣は抱えている駒で決めるものだ」と反論されたものだ。

 しかし一方、布陣が人材を育てるという側面があることも事実だった。4−2−3−1や4−3−3がシェアを広げていた欧州では、優れたウインガーが続々と誕生していた。

 4−2−3−1を敷くオシムジャパンで、3の両サイドに起用されたのは、遠藤保仁や中村俊輔だった。オシムは中盤の選手を両サイドに据え、そのエリアをカバーさせようとした。

 中盤に優れた人材がひしめいていた当時の日本。それはまさに4−2−2−2の産物だった。ジーコが新監督に就任し、中田英寿、小野伸二、中村俊輔、稲本潤一の4人が中盤ボックス型を形成すると、メディアはジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾが活躍した1982年W杯当時のブラジル代表を引き合いに出し、「黄金の中盤」と讃えたものだ。

 中盤天国だったジーコジャパンの時代に、現在の日本のウイング天国を想像した人はどれほどいただろうか。オシムジャパンを機に、日本サッカーの流れは一変した。ただし、その生みの苦しみを、オシムジャパンは少なからず抱えていた。

 難敵オーストラリアを延長、PK戦の末に下した日本は、続く準決勝でサウジアラビアに3−2で敗れ、3位決定戦に回った。

 相手は韓国で、結果は0−0。延長、PK戦の末、日本は敗れた。オシムは例によってその瞬間を見ていないのだが、それはともかく、勝ちきれなかった理由は先述のとおり、使用する布陣と選手のキャラがマッチしていなかったことにあった。

【ザッケローニへの疑念】

 だが、今日の日本にとって、これが有益な敗戦であることはその後の事象が物語っている。

 2011年のアジアカップはカタールで開催された。日本は前年の2010年南アフリカW杯で、2002年日韓共催W杯に続き2度目のベスト16入りをはたしていた。W杯のアジア予選では4.5という出場枠からはみ出る可能性はほぼなくなっていた。アジアカップでも過去3大会、優勝(2000年)、優勝(2004年)、4位(2007年)。優勝を望むと同時に、W杯本大会でどれほど通じそうかという可能性、すなわちサッカーの内容も問われるようになっていた。

 監督はアルベルト・ザッケローニ。日本サッカー界が攻撃的サッカーというひとつのコンセプトに基づいて探し求め、招聘した初めての監督だった。

 日本は苦戦しながらも順当にベスト4入りし、準決勝で韓国と対戦した。日本代表の好試合を語る時、このアジアカップでは、決勝のオーストラリア戦とともに引き合いに出される一戦である。

 この韓国戦は、1−1のまま延長に突入する。延長前半7分、細貝萌のゴールが決まり、2−1と日本が試合をリードした。するとザッケローニは延長後半の頭、前線の前田遼一を下げ、ディフェンダーの伊野波雅彦を投入した。4−2−3−1を5−3−2に変えたのだ。

 5バックで逃げきりを図ろうとした。ところがその間隙を韓国に突かれ、最後の最後に追いつかれてしまう。この采配ミスは、その後のPK戦に勝利したことで、あまり語られることはなかった。これまた延長戦に及んだオーストラリアとの決勝戦が、その後半に李忠成が鮮やかな決勝弾を決めるという劇的な勝利であったことも輪を掛けた。采配ミスは歓喜によってかき消された恰好だった。


2011年アジア杯は、日本が決勝でオーストラリアを破り優勝したphoto by Fujita Masato

 しかし、2014年ブラジルW杯でグループリーグ最下位に終わったザックジャパンを振り返ったとき、真っ先に思い出された試合がこの準決勝だった。大会後、その招聘に奔走した当時の原博実技術委員長にインタビューを行なった。その際、「ザッケローニの目指したサッカーは本当に攻撃的サッカーだったのか」と尋ねたところ、しばらく「うーん」と唸ったままだった。

 5バックで守りを固めるサッカーといえば、森保一監督を想起する。2022年カタールW杯、昨年9月に行なわれたドイツとの親善試合ではその策に打って出て、結果的に成功を収めている。「賢く、したたかに戦うことが必要だ」と森保監督は述べていたが、5バックで守りきれなかった例は世の中にいくらでもある。

 そしてその代償は高くつく。筆者は2011年アジアカップと言われたとき、ザッケローニの弱点が露呈した準決勝の延長戦が真っ先に脳裏に蘇るのである。
(つづく)