中田英寿、中村俊輔、小野伸二の3人をなぜトルシエは同じピッチに立たせなかったのか
フィリップ・トルシエの哲学
連載 第4回
2000年アジアカップ優勝の舞台裏(3)
◆(1)トルシエジャパンが絶大な成果を出した「ラボラトリー」とは?>>
◆(2)トルシエは袂を分かった名波浩をなぜ日本代表に再招集したのか>>
フィリップ・トルシエが率いる当時の日本代表には、中田英寿、中村俊輔、小野伸二という日本が世界に誇る3人のゲームメーカーがいた。
高度なテクニックと想像力にあふれたパス、キレ味鋭いFK......。2002年W杯で3人が競演し、華麗かつファンタジックな攻撃を日本が大舞台で実現する姿を見たい、というのは大方の日本人が抱いた願望でもあった。
だがトルシエは、W杯に至るまで同じピッチに3人を同時に立たせることは一度としてなかったばかりか、W杯も含めた国際大会に3人を同時に招集することすらなかった。
コパ・アメリカ(1999年)には3人とも参加せず、ハッサン2世杯(2000年6月)とシドニー五輪(同年9月)は、万全な状態ではなかった小野が不参加だった。そして、アジアカップ(同年10月)は中田英が参加を辞退。中村と小野のふたりが、決戦の地であるレバノンに向かった。
中田英不在のアジアカップでも、トルシエは中村、小野のどちらもトップ下では起用しなかった。その理由のひとつは、チームのバランスの問題であり、選手のクオリティの問題だった。
中村も、小野も、中田英のようなフィジカルの強さはない。相手に厳しく当たられた時にはねのけられる体の強さはなく、また自らゴール前に進出してDFと競りながらシュートを打つのも難しい。ふたりは中田英のように、戦いも辞さないタイプではなかった。
チームのバランスを保ちながら、ふたりの力を最も効果的に発揮できるポジション――それは「アウトサイドであり、ボランチである」というのがトルシエの結論だった。だが、バランスだけの問題ではなかったとトルシエは言う。
「対戦相手との力関係も大きかった。チームのバランスは、対戦相手によって変わる。中田英と中村、小野の3人を同時にプレーさせるのであれば、日本が圧倒的にボールを保持する必要がある。それが絶対条件だった」
その意味でアジアカップは、日本が圧倒的にボールを支配した大会であり、3人が競演するには唯一絶好の舞台であったのかもしれない。しかし、中田英は所属するローマの試合に専念するために参加を辞退し、トルシエも彼の意志を認めた。
小野はチームに帯同したものの、前年7月の負傷の影響が大きく本調子とは言えず、出場機会が限られた。ただひとり中村だけが、アジアカップでもシドニー五輪からの好調を維持し続けたが、トルシエが中村に用意したのはシドニー五輪同様に左アウトサイドのポジションだった。
とはいえ、トルシエが3人を評価していなかったわけではない。3人の特徴を彼は次のように語っている。
「3人は等しく才能にあふれ、いずれも唯一無二の存在だった。それぞれが独自のポテンシャルを持ち、比較した時に中田英は最もフィジカルが強かった。小野は最も知性にあふれ、中村は技術面で最も熟達していた。
屈強な中田はフィジカルコンタクトに強く、それはヨーロッパでプレーするうえで必要な強さでもあった。そうであるから、ヨーロッパでもすばらしいキャリアを築くことができた。
小野はプレーの理解能力で卓越していた。その知性で、優れたパスを供給してアシストを重ねた。ピッチ外でも俯瞰的に状況を捉えて、適切な判断を下すことができた。
中村の場合は、足の代わりに手を備えているようだった。まるで手で扱っているようにボールを自由にコントロールし、FKは世界のトップ3に入るほどに優れていた。引退している今でも、(FKは)世界のトップ10に入る力はあるだろう。彼の左足にはそれだけの力がある」
2000年のシドニー五輪、アジアカップでは存在感を示した中村俊輔だが...。photo by Kyodo News
ただ、中田英と小野が年齢以上に精神的に成熟していたのに比べ、中村のメンタリティはふたりとは異なっていた。
「(当時の)中村はひとりでいることが多く、オープンではなかった。積極的にコミュニケーションを取ることもなく、ちょっと内気で閉鎖的だった」
トルシエは若い世代――とりわけ「黄金世代」の選手たちに、アフリカの現実を経験させることで精神的に成長し、成熟していくことを促した。中村もブルキナファソやナイジェリアに行っていたら、その後は変わっていたのだろうか。
「それはわからない」とトルシエは言う。
アジアカップで本意ではないポジションを与えられた中村は、その圧倒的なパフォーマンスとは裏腹に、精神面でストレスをため込んでいった。優勝を決めたあとのインタビューでも彼は、自らの望むポジションでプレーできなかったことについて「サイドとか......」と語って、言葉を詰まらせた。
中村の葛藤は、その後も深まっていった。負傷によりコンディションを落とした中村をトルシエは起用せず、中村がW杯の代表メンバーに選ばれるか否かは国民的な関心事にまで高まっていった。
「中村は、彼を取り巻くメディアにも苦しんでいた。自身の存在が日本代表を超えて、『どうしてトルシエは彼を起用しないのか』『はたしてW杯に招集されるのか』といったことが、大きな話題になっていたからだ。だから、自分を閉ざしてしまったのも仕方のないことで、私との軋轢に悩み、気持ちも重くなったのだろう」(トルシエ)
だが、「それと、彼のコミュニケーション能力は別の問題だ」とトルシエは言う。W杯の代表選考に際して、トルシエは中村から何の意思表示も感じなかった。
トルシエが好むのは、故・松田直樹のような自らの意志をはっきりと示す選手である。韓国・ソウルでの五輪代表戦に起用されなかった松田は「試合に出られないなら、クラブに専念したいから」と言い残し、中央アジア遠征には同行せずに帰国してしまった。
だが、トルシエとの間に遺恨が残ることはなかった。トルシエはその後も松田をチームにとどめ、シドニー五輪にもアジアカップにも松田を帯同させた。中村は、そうした割りきったコミュニケーション像からはかけ離れていた。
「2002年W杯の準備の段階で、私は一度として中村から『W杯にどうしても行きたい』という強い意志を感じなかった。W杯への準備が整っているかどうかもわからなかった。
スペイン合宿でも数人の取り巻きと狭い世界に閉じこもり、何を考えているのか本心をうかがい知ることが私にはできなかった。メンバーを決定する際にも何のアピールも意思表示もなく、私に彼を選ばせる働きかけは何もなかった」
ケガでコンディションが整わなかったというのが、トルシエが公にした中村落選の理由である。ただその裏には、「中村はベンチやロッカールームでチームの力になれる選手ではない」という、トルシエの判断があった。その役割を担えるのは、中山雅史や秋田豊であって、中村ではなかった。
W杯後の中村の変化をトルシエはこう述べている。
「ジーコが(日本代表の)監督に就任したのが、彼にはよかったかもしれない。また、イタリア(レッジーナ)とスコットランド(セルティック)で異なる文化に接して、すばらしいパフォーマンスを発揮するようになり、以前とはまったく違う選手になった。
私が監督当時の中村は、内気で野心を見せない典型的な日本の選手だった。海外のクラブに移籍したことで、彼は自分の心を開くようになった。そのテクニックと才能で、彼はスコットランドで評価を確立した」
(文中敬称略/つづく)
フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U−20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U−23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。