連載◆『元アスリート、今メシ屋』
第1回:川尻哲郎(元阪神ほか)前編

3度の二桁勝利をあげ、暗黒期とも呼ばれた時代の阪神タイガースを支えたサイドスロー・川尻哲郎。1998年5月26日には、対中日ドラゴンズ戦でノーヒットノーランを達成。日米野球での好投や、球団合併・1リーグ制への移行に揺れた球界再編阻止に奔走した姿は、タイガースファンのみならず多くのプロ野球ファンの記憶に刻まれた。

現役を退いた後は、独立リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスで投手コーチや監督を歴任。現在は、東京・新橋でスポーツバー『TIGER STADIUM』を経営している。

インタビュー前編では、38年ぶりの日本一に沸いた2023年のタイガースと、自身の現役時代について話を聞いた。


現役時代の川尻さん photo by SPORTS NIPPON

【選手・首脳陣・フロントが一丸となって勝ち取った日本一】

── かつて阪神タイガースのエースとして活躍した川尻さんですが、現在は東京・新橋でスポーツバー『TIGER STADIUM』を経営なさっています。2023年シーズン、強かった阪神。お店のほうも盛り上がったんじゃないですか。

川尻哲郎(以下・川尻) おかげさまで阪神ファンのお客さんにたくさん来ていただいて、いい1年になりました。連日、大賑わいでしたよ。

── 38年ぶりの日本一。古巣の戦いをどのように見ていましたか。

川尻 元々よかった投手陣ですけど、村上(頌樹)くんや大竹(耕太郎)くんを中心にローテも安定していたし、調子が悪い投手がいたら、他の投手が上手くカバーできていましたね。野手も中野(拓夢)くんをセカンドにコンバートして、ダブルプレーを取れるようになったし、キャッチャーも梅野(隆太郎)くんが怪我をしても坂本(誠志郎)くんが頑張って、全員野球ができていました。打線のほうは、これまでの「打て、打て!」から「見て、見て」になりました。

── 打席での粘りもさることながら、フォアボールはリーグ最多(494個)でしたね。

川尻 走塁も含めて、相手を苦しめるようなプレーを年間通じてできたのが良かったですね。そして岡田彰布監督の存在。当然勝たなくちゃいけないプレッシャーはあるんだろうけど、それを見せないっていうか。選手たちに対しても、伸び伸びじゃないですけど、負担が掛からないように自分のプレーに集中させたっていうのはあったと思います。

── 川尻さんが知る、岡田監督はどのような方ですか。

川尻 現役時代は入れ替わりだったし、岡田監督が打撃コーチ時代も僕はピッチャーだから接点は少なかったんですけど、今年、宜野座キャンプで久々にお会いしたら、歓迎をしてくれて。すごくOBに気を使ってくれる方ですよ。そういう意味では選手の個性をよく観察しているし、しっかりと役割を与えていたように思います。引くときは引くし、粘るところは粘る。もちろん上手くいくこともあれば、いかないこともある。そこで選手たちが自分で考えて応えたり、カバーするようになって、投打ともに嚙み合っていました。選手たちはもちろん、岡田監督やコーチ、フロントが一丸となって勝ち取った日本一だったと思いますよ。

── 日本一まで長かったですね。

川尻 いや、本当ですよね。平均値で考えれば12年に一度は日本一になれるはずなのに、3倍以上の時間が掛かってしまった(笑)。でも、これからが挽回じゃないけど、選手層を見ても、いい時代が続くような予感はありますね。

【ノーヒットノーランは忘れられない】

── 川尻さんが阪神に在籍していた9年間(1995〜2003年)は、思えば苦しい時代でした。

川尻 弱かったですよねえ(苦笑)。けど弱いなりにプレッシャーを感じてプレーはしていたんですよ。やっぱりファンの熱量はどの球団よりも高いし、動揺しちゃうようなメンタルでは甲子園じゃ戦えない。ま、僕は野次とかあまり耳に入らないタイプでしたけど(笑)。でも大活躍すれば騒がれるし、有名にもなるし、新聞の一面にもなる。だからなかには勘違いして、そのまま辞めていっちゃう選手もいました。今の選手はそんなことないと思うけど。

── あれだけの大応援団。やはりプレッシャーは半端ないのでしょうね。

川尻 ファンにとって阪神は生活の一部だし、弱い時代であっても期待値は高かった。でも僕としては、9年間すごく楽しかったですよ。勝負どころではいつも緊張したし、そのなかで結果を残さなければならない。立つだけで震えるような甲子園のマウンドは、本当に楽しかったですよ。別のドアの世界が開くみたいで。

── 開幕投手や二桁勝利など、中心選手として活躍した川尻さんですが、震える瞬間といえば、やっぱり1998年5月の中日戦(倉敷)でノーヒットノーランを達成した時でしょうか。

川尻 そうですね。最後は緊張してボールが真ん中に行っちゃったりして(苦笑)。まあ、ノーノーを逃しちゃう人もたくさんいるわけだけし、達成できるかできないかは大きな違いですから。試合中のチームメイトの反応? そりゃ、ゲームが進むにつれ声は掛からないし、ほとんど誰も近づいてはこなかったですよ(笑)。忘れちゃったことはいっぱいあるけど、やっぱりあれだけは忘れられないですよね。


ノーヒットノーランを達成した歓喜の瞬間 photo by SPORTS NIPPON

── 興味深いことに、98年のオフ、日米野球でMLBを代表する投手であるカート・シリング(フィラデルフィア・フィリーズ)を相手に、川尻さんは完封目前の9回1アウトまで投げています。MLB選抜には、サミー・ソーサ(シカゴ・カブス)やマニー・ラミレス(ボストン・レッドソックス)、ジェイソン・ジアンビ(ニューヨーク・ヤンキース)など錚々たる強打者たちがいました。

川尻 ものすごく覚えていますよ。実はあの試合、僕は先発の予定じゃなかったんですよ。本当は中継ぎでブルペンに入る予定だったんですけど、先発の西村龍次(福岡ダイエーホークス)が体調不良だっていうんで、急遽、投げてくれって監督の長嶋茂雄さんから言われまして。

── そうだったんですね。さすがに断れませんね。

川尻 0点で抑えることができて、7回まで行ったんですよ。もうここで終わりかなって思っていたら、日本選抜でチームメイトだった古田敦也さんと清原和博さんが「投げろ!」って言うんです。なんでも日米野球で完封したピッチャーはいないからチャンスだって。あの沢村栄治さんだって、たしか8回1失点だったんだと。それを聞いた長嶋さんは「あー、いいよ、投げろ」って。だから古田さんと清原さんのおかげで、完封はできなかったけど、9回まで投げることができたんです。

【ポスティングでのMLB移籍を直談判】

── そんなことがあったんですね。川尻さんは、もちろん先発が多かったんですけど、中継ぎでも投げていました。先発にはこだわりがあったんですか。

川尻 まあ一週間休めますからね(笑)。それは冗談として、僕は球威で押すタイプではなく、キレとコントロール、緩急が身上だから、やっぱり中継ぎだと厳しい場面がある。抑えられなくはないんだけど、できれば先発で回りたいという思いはありました。

── 阪神時代は二桁勝利が3回。

川尻 でも、隔年(1996年、1998年、2000年)なんですよね。二桁勝った次の年は疲れちゃって、ちょっとね(苦笑)。

── その頃、球団にポスティングでMLBに挑戦させてほしいと直談判したと聞いています。

川尻 ああ、たしかに。当時の球団社長に行きたいって伝えたんですけど「エースなんだから出せるわけないだろ!」って言われまして(笑)。

── MLBに憧れはあったんですか。

川尻 やっぱり日米野球で戦った経験が大きかった。抑えられるんじゃないかって衝動に駆られたし、若かったから、レベルの高いところでやってみたいって気持ちはありましたよ。

── 当時は同学年の野茂英雄さんがMLBで活躍していましたね。

川尻 まだイチローがポスティングでMLBに行く前だったし、時代も時代でしたよね。だからメジャー志向のあった同僚の新庄剛志(現・日本ハム監督)と、よく向こうに行くだの行かないだのと話はしましたよ。まあ今みたいな時代だったら実現したかもしれないですけど。いや、阪神はポスティングじゃ出さないか(笑)。

── 先日、ドジャースと大型契約をした大谷翔平選手はどのように見ていますか。

川尻 見るも何も、言うことないですよ。打者として本塁打王になってピッチャーで二桁勝利でしょ。すごいとしか言いようがない。でも大谷くんを見ていて思うのは、東北という土地に楽天イーグルスができた影響って大きかったのかなって。(トロント・)ブルージェイズの菊池雄星くんもそうですけど、東北にプロ野球チームができたことで、地元の子どもたちにとって身近な存在になったと思うんです。ゲームを観に行ったり、野球教室に参加したり。可能性を持った子どもたちが出てきやすい環境やきっかけになったのは間違いないと思います。

── つまり2004年にあった『プロ野球再編問題』が、いい影響を与えているのでは、と。

川尻 簡単に言えばそうですね。

── 球界再編といえば当時、川尻さんは阪神から近鉄に移籍し、当事者として渦中にいました。そして分配ドラフトで楽天へ行くことになりますね。

川尻 いや本当、びっくりというか、そんなことあるのかってことが当時は起こっていた。阪神を出てすぐの出来事だったし、僕にとっては本当に忘れられない日々ですよ。


インタビューに答える川尻さん

(全2回の後編に続く)

【Profile】

川尻哲郎(かわじり・てつろう)/1969年1月5日生まれ。日大二高、亜細亜大、日産自動車を経て、1994年のドラフト会議で阪神タイガースから4位指名を受け入団。1996年に自己最多となる13勝。1998年にはノーヒットノーランを達成(対中日ドラゴンズ戦)するなど、最下位に終わったチームの中、10勝をあげる。2003年オフに大阪近鉄バファローズへトレード移籍後、球界再編に揺れた2004年オフに、当時の新球団であった東北楽天ゴールデンイーグルスに分配ドラフトで入団。2005年シーズンをもって現役引退。プロ野球通算227試合に登板(163先発)、60勝72敗。