大河ドラマ「光る君へ」で紫式部の父を演じる岸谷五朗さん(写真:大河ドラマ公式サイトより引用)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして2人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載(毎週日曜日配信)で解説を行っていきたい。初回は聡明だった式部に、父親の為時が口にした一言と、式部の人生に与えた影響について解説する。

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生年も本名もわかっていない

世界最古の長編物語『源氏物語』の作者として知られる紫式部。生年については諸説あり、970(天禄1)年とする説や、973(天延1)年とする説などがある。

本名もよくわかっていないが、存在したことは確かなようだ。次のような記録が残っている。

平安時代の公卿・藤原実資は、一条天皇の皇后である彰子の御殿へ、毎月のように出入りしていた。どうも、養子の藤原資平を蔵人頭に任官させてほしいと、彰子にとりなしてもらおうとしていたようだ。

訪問時には、必ず同じ女性が取り次いでくれたという。藤原実資は長和2(1013)年5月25日、日記『小右記』にこう記した。

「今朝帰り来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う」

この女房のことを「越後守為時の娘」と説明している。

「越後守為時」とは、越後守を務める藤原為時のことで、その娘が現在、「紫式部」として知られている女性だ。この『小右記』での記述が、紫式部の実存を裏づける確かな記録とされている。

紫式部は、父の藤原為時から、文学的な素養を受け継いだらしい。

為時は文章生(もんじょうしょう)出身の学者で、貞元2(977)年3月28日に東宮(花山天皇)の御読書始において、副侍読を務めている。副侍読とは、天皇や東宮に仕えて、学問を教授する学者のことをいう。

平安中期の漢詩集『本朝麗藻』では、為時の漢詩が13首入っている。一方で為時は歌人としても活動していた。『後拾遺和歌集』『新古今和歌集』には4首が入選を果たした。

為時はどんな人だったのか。その性格をよく表すエピソードが『紫式部日記』には書かれている。

寛弘7(1010)年正月2日のことだ。藤原道長の邸宅で宴が開催されることになった。為時には音楽の才もあったため、道長は管弦のために、為時を招いたようだ。


藤原道長の邸宅土御門第の跡(写真: なみこし / PIXTA)

ところが、宴が終わると、為時はさっさと席を立ち、帰ってしまった。その姿を見た道長は紫式部に「お前のお父さんはひねくれている」といってからんだのだという。

一条天皇の「文士十傑」に数えられるほどの優秀さを持ちながらも、10年も官職を得られず、出世できなかったのは、そんな為時の性格と無関係ではないだろう。

紫式部もまた、非社交的で、内向的なところがあった。文学的な素養だけではなく、性格の面でも、式部は父から影響を受けていたのかもしれない。

母は3人の子を残して亡くなった

紫式部の本名がよくわかっていないのは前述したとおりだが、それは何も特別なことではなく、当時は女性の名前を記録として残さなかった。

そのため、紫式部を生んだ母親のことも「藤原為信の女」、つまり、藤原為信の娘としかわかっていない。

為時が藤原為信の娘と結婚すると、翌年に長女が生まれて、その後は次女、長男の順で生まれている。この次女が紫式部だ。

だが、3人の子を産んだことが、体に障ったらしい。式部は数え年にして3〜4歳のときに、母を亡くすことになった。妻に先立たれた為時は、別の女性と結婚することになるが、自宅に招き入れることはなかったという。

式部は姉と弟とともに母なき家庭で、漢学者の父、乳母、女房らに育てられることになる。

母なき家庭に育った式部には、忘れられない父の一言があった。

家で書物を読んでいたときのことだ。弟の惟規が漢籍をなかなか覚えられないなかで、 式部はしっかり暗誦していた。

為時が口にした意外な言葉

漢学者の父ならば、そんな娘をさぞ褒めたかと思いきや、為時が口にした言葉は、意外なものだった。

「つくづく残念だ。この子が男子でないとは、なんと私は不運なんだろう……」(惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ)

まだ漢学が女子の通常教育ではなかった時代だ。為時のような考え方は珍しくなかった。

言われた式部のほうも「女性は漢学の知識などひけらかしてはならない」と、戒めるようになった。一条天皇の中宮彰子のもとに出仕したときには、こんな涙ぐましい努力までしている。
 
「私は『一』という字の横棒すら引いておりません」

「一」の漢字すらも書けないフリをした紫式部。自身が才女であることをなんとか隠そうとするなかで、式部の心を強く揺さぶったのが、清少納言の『枕草子』だ。

その遠慮がなく言いたい放題の筆致に対して、式部は「利口ぶって漢字を書き散らしている」と酷評。面識のない清少納言の振る舞いを、辛辣に批判した。

そうして清少納言へのライバル心を燃やしながら、紫式部は『源氏物語』の執筆になおいっそう精力的に取り組むことになったのである。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)