スタバ持つ「特別感」は「矛盾」が作っているのではないか。スタバの歴史をたどりながら、どのように現在に至っているのかを考える(写真:photok/PIXTA)

日本で3番目に多い飲食チェーンなのに、令和の今もわれわれ消費者に特別な高揚感を与えてくれるスタバ。

ブランディングやマーケティングから見ても、一貫した理念や戦略があるように思えるが、実は「コーヒーを大切にしてきた歴史がある一方で、人気商品は、コーヒーとは正反対にも思えるフラペチーノである」など、矛盾とも思える部分も少なくない。

しかし、この矛盾こそが、スタバを「特別な場所」にしてきたのかもしれない──。

『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』『ブックオフから考える 「なんとなく」から生まれた文化のインフラ』などの著作を持つ気鋭のチェーンストア研究家・谷頭和希氏による短期連載の第2回(第1回:スタバで「フラペチーノ」飲む人が知らない"真実"はこちら)。

コーヒーにこだわっているのに、本場イタリアには存在しないドリンク・フラペチーノが主力商品である──。

スタバは店舗コンセプトとして「サードプレイス」を掲げているが、提唱者の定義からは大きく外れている──。

前回は、スタバの特別感を作っているのが、スタバが持つ上記のような「矛盾」にあるのではないか、と指摘した。

今回からは、実際にスタバの歴史をたどりながら、その「矛盾」がどのように生まれつつ、現在に至っているのかについて考えていこう。

スターバックスのはじまりはコーヒー焙煎店

スターバックスの創業は、1970年代にまでさかのぼる。その前身となる店は、ジェリー・ボールドウィン、ゴードン・バウカー、ゼブ・シーグルの3人がシアトルで創業。その1号店はシアトルにある「パイク・プレイス・マーケット」に誕生した。

その店は、こだわり抜いたコーヒー豆の提供で、シアトルで有名な店となり、数店舗を構えるまでに成長。現在でも1号店は営業を続けており、熱烈なスタバファンたちが世界中から訪れる店となっている。

ちなみに、現在でもスタバに行くと、「本日のコーヒー」の1種類として「パイクプレイスロースト」というコーヒーを飲むことができるが、それはスタバがその原点である場所を忘れないように、メモリアルなブレンドとして作ったコーヒーである。

かくしてスタバの1号店はシアトルに誕生したわけだが、この1号店、現在われわれが知っているスタバの姿とは大きく異なる店舗形態だった。実は、スタバのはじまりは喫茶店ではなく、コーヒー焙煎店、つまりコーヒー豆を売るショップだったのである。

いわば、カルディのようなものかもしれないが、現在われわれがイメージするスタバとは異なるものだったことを確認しておきたい。

地元密着型の店としてのスタバ

このように初期のスタバは現在われわれがイメージするスタバとは異なる姿を持っていた。

それは店舗形態だけではない。スタバといえば、世界中のどこにでもある「グローバルチェーン」としてイメージするかもしれないが、実は当初のスタバはまったくそんなことはなかった。どちらかといえば、開業当初は地元密着型の個人経営のコーヒー焙煎店、という姿に近かった。シアトルに根付くローカルな店として始まったのだ。

スタバを立ち上げた3人について、ジョン・シモンズはこのように書いている。

「スターバックスが始まったのは、3人の創業者が高品質のコーヒーに絶対的なこだわりを持っていたからで、彼らの頭には企業帝国を築くことなど微塵もなかった」(『スターバックスコーヒー 豆と、人と、心と。』)


『スターバックスコーヒー 豆と、人と、心と。』(筆者撮影)

そのような初期スタバのローカリズム志向は、その店の場所にもよく表れている。

パイク・プレイス・マーケットはアメリカの中でも最も歴史の長いマーケットで、全米有数の農産物の産地であるワシントン州からの産直野菜やフルーツ、新鮮な魚介類が所狭しと並べられている場所なのだ。ローカルに密着した場所でスタバを作るという選択自体が、初期のスタバが目指している姿を物語っている。

そしてもう1つ重要なのは、彼らがローカル志向であると同時に「コーヒーの品質」に徹底的にこだわったということである。

後にスタバに入社し、スタバをグローバルチェーンへと育て上げたハワード・シュルツは、彼らのコーヒーへのこだわりについて「スターバックスの創立者にとって、コーヒーの品質がすべてだった」と述べている。そしてその背景について次のように書いている。

「1970年代に入ると、アメリカ人、とくに西海岸で暮らす人々は腐りやすくて味気ない人工風味料を加えた包装食品を嫌うようになった。その代わりに、新鮮な野菜や魚を料理し、焼きたてのパンを買い、自分でコーヒー豆を挽くことを選択した。まがい物や加工品、二流品を拒否して、本物や自然食品、高級品を受け入れたのである。こうした人々の嗜好の変化は、スターバックスの創立者たちの発想とうまくかみ合った」(ハワード・シュルツ『スターバックス成功物語』)

大量消費の時代、食のあり方を問い直す考え方と連動

1950年代から60年代にかけて、アメリカではいわゆる大量消費社会が形成され、マクドナルドのハンバーガーに代表されるような、人工的な食が大量に作られるようになっていった。


この時期にポップ・アーティストとして有名なアンディ・ウォーホルが、有名な「キャンベルスープ缶」の絵を描いているが、それはある意味では食品が工業製品のように作られていくという時代を的確に表現したものであった。

人々が自由に好きなものを選択し、食べることのできる社会は望ましいものだが、一方では工業製品のように食が作られることに対する疑念も生まれていた。

1960年代末、都市での生活を否定して自然へと回帰することを訴えた西海岸のヒッピームーブメントなどと連動して、食のあり方を問い直す考え方が西海岸を中心に広まりつつあった。

例えば、そのような思想から生まれたのが「スローフード」であったり、オーガニック志向といった食に対する考え方であった。

西海岸の思想の中心地でもあったカリフォルニアから、スタバのあったシアトルは距離が離れてはいたものの、そうした同時代的な食に対する思想と連動するものがあった。その中でスタバの創業者3人はコーヒーの品質に徹底的にこだわった、地元密着型の店を作ろうとしたわけである。

この頃のスタバを語る証言の中でよく登場するのが「本物のコーヒー」という言葉である。彼らが自身の店で出すコーヒーをどのように捉えていたのかがよくわかるだろう。

スタバの経営理念は現在でも続いている

さて、こうしてスタバの最初期の姿を見ていくと、それは現在われわれがイメージするスタバの姿と大きく異なることに驚かされる。

初期のスタバは、シアトルという土地に根差しながら、コーヒーの品質に徹底的にこだわるローカルなコーヒー焙煎店だった。そして、この時点でスタバはグローバルチェーンとしての姿をまったく持っていなかった。もちろん、フラペチーノも提供していない。

つまり、前回私が指摘したような「矛盾」を持っていなかったのである。ローカルに根差し、シアトルに数店舗を構える個人主義のコーヒー店。もちろん、フラペチーノも提供されていない。そこにはなんの矛盾もない。

そもそも、フラペチーノは1994年にスターバックス社がコーヒーショップ・チェーン「コーヒー・コネクション(Coffee Connection)」を買収したことから提供されるようになったビバレッジだ。買収の際に、コーヒー・コネクションがソフトクリームマシンで作っていた、冷たいコーヒー飲料「フラペチーノ」の権利も、同社から手に入れたのだ(公式サイトによる)。なので、もともと発明したのも、スタバではない(当然、今はスタバが開発しているが)。

ここで指摘したいのは、初期のスタバが持っていたローカル志向やコーヒーへのこだわり、といった思想は、スタバがグローバルカンパニーへと成長した現在でも重要視されている、ということだ。

歴史学者・文化研究者のブライアン・サイモンは『お望みなのは、コーヒーですか?』の中で、スターバックスが「本物のコーヒー」を重視していることを強調している。そして実際、スターバックスジャパンの「Our Mission and Values」には「私たちは、人間らしさを大切にしながら、成長し続けます」とあって、ここに見られる「人間らしさ」の重視もまた、こうした思想の延長線上にあると考えられる。


『お望みなのは、コーヒーですか? スターバックスからアメリカを知る』(筆者撮影)

そしてスタバが持つ「矛盾」はこの、初期スタバが持っていた経営理念とその後のグローバル展開の際に起きたものなのではないかと私は考えている。いったいどういうことか。

次回詳しくつづるが、あえて先に核心に触れるのであれば、「顧客の要望に合わせるように店を作り、柔軟に変化させていったからこそ、スタバには『矛盾』が必然的に生じたのではないか?」ということだ。

ということで、次回は、スタバがグローバルチェーンへと至る過程を追いながら、そこでどのようにさまざまな「矛盾」が生じたのかを見ていこう。


画像をクリックすると本連載の過去記事にジャンプします

(谷頭 和希 : チェーンストア研究家・ライター)