マラソンレース史上に残る40キロ手前からの競り合いだった。

 先を行く小山直城(ホンダ)を追い、赤粼暁(九電工)と大迫傑(ナイキ)、川内優輝(あいおい損保)の3人がパリ五輪マラソン男子代表が内定する2位内を狙い、牽制し合っていた。

 先に動いたのは、赤粼だった。

MGCで2位になり、パリ五輪出場を決めた赤粼暁

「最後、あの坂のところで仕掛けたり、動きが出るんだろうなって思っていたので」

 コースを見た時、そうイメージしていたが、自らが先に動いて大迫と川内を引き離しにかかった。ぐんぐんスピードを上げて、後続との差を広げ、下りに入るとさらに加速した。

「そこまで自分の持ち味であるスピードをあまり出せなかったんですけど、先にトラックに入れば負けることはないという自信がありました」

 赤粼は、拓大時代に箱根駅伝を走った長距離ランナーであり、屈指のスピードを持つ。7月のホクレンディスタンス網走大会の5000mでは13分27秒79の自己ベストを出し、4日後の北見大会の5000mでは三浦龍司(順大)に競り勝って13分28秒70を出した。

「網走大会の段階でスピードがついたなと感じていました。北見大会では三浦君に勝ちましたけど、万全ではなかったと聞いていますし、レースも三浦君のうしろについて最後だけって感じだったので完璧に勝ったとは思っていません。でも、ラストを57秒で回り、2戦つづけて13分30秒を切って走れたのは自己ベストがまぐれではないことを証明できましたし、すごく自信になりました」

 その2レースでの自信がレース後半に突き放しにかかる判断を支えた。

 国立競技場に入ってトラックでは絶対に負けないと思っていたが、先に場内に入ると、すぐに「わぁー」という大歓声が沸き起こった。

「トラックに入って、2位いけるかなって思ったら、すごい歓声が起きたので大迫さんが来ているんだなって思いました。ちょっと怖かったですね。でも、そこから気を抜かずに200mを頑張ってペースを上げて、そこで大迫さんの心が少し折れたらいいなって思っていました。次の200mから300mまでの100mは様子を見て、ラスト100mを上げる。そこは冷静に対応ができたと思います」

 トラックでの赤粼の走りは大迫に比べても余裕があった。スピードに自信があるがゆえの戦略で、最後は大迫に5秒差をつけ、2位でフィニッシュした。

「優勝したみたいに、ちょっとガッツポーズしちゃったんですけど、マラソンで日本代表になるのが夢だったので......正直、いろんな選手が仕上がっていると聞いていたので、心のどこかで無理だろうな。8位内に入れば次につながるかなと思っていたんですが、予想以上に走れたことでうれしさが爆発してしまいました」

 赤粼は、そう言って相好を崩した。

【MGCに向けてふたつの課題を克服】

 陸上人生を歩み始めた高校の時から赤粼の夢は、日本代表のユニフォームを着て走ることだった。

「五輪や世界陸上だけではなく、アジア大会とか日本代表として世界の人と一緒に走りたいと思ったんです。それに日本の人口1億人がいる中、マラソンで日の丸をつけて走れるのは2、3人だけじゃないですか。それってすごいことですし、将来、結婚して子どもが出来たら、子どもにも自慢できるかなと思うので(笑)」

 それにしても高校から競技歴9年で夢を実現し、五輪のマラソン日本代表に上り詰めたことは、まさに快挙であり、赤粼自身の努力と周囲のサポートの賜物だろう。  

 赤粼は、中学時代はバレー部だった。地元のマラソン大会では陸上部の選手よりも速く、陸上部の監督に「朝練習だけでも来てくれ」と言われ、朝は陸上部で活動していた。開新高校に入り、本格的に陸上を始め、卒業後は拓殖大に入学し、1年目から10区を任され、箱根駅伝を走った。その後も2年の時は3区、3年は1区、主将として臨んだ4年は3区を任された。

 九電工に入社したのは、大学4年の時に見たMGCで4位に入った大塚祥平の走りに感銘を受けたからだった。

 あれから4年後、テレビで見ていた舞台に出場し、赤粼は五輪の切符を掴んだのだ。

 今回のMGCの出場に当たって、ふたつの課題を克服してきた。

 一つ目は、35キロ以降のスタミナだ。福岡国際マラソン2022では、2時間8分切りを目指したが、35キロ付近で足が止まり、そこからの5キロは16分以上(16分2秒)かかってしまった。

「今のマラソンのレースを見ていると35キロ以降にペースアップしていくのがトレンドというか、勝ちパターンですが、自分は逆に落ちてしまった。ラスト2キロのペースも上げられなかった。そこが課題かなと思っていましたので、ジョグの時間も60分を80分にしたりして、月間走行距離も300キロぐらい増えました。ポイント練習でもラスト1本、ラスト1キロでペースを上げて切り替える練習をしてきました」

 月間走行距離は900キロを超え、距離を増やすことで足に地力がついてきた。

 2つ目は坂道対策だ。

 MGCのコース終盤は、誰もが「勝負所」として挙げていた坂がある。赤粼は、「もともと坂が苦手」ということで、ジョグの途中でもあえて坂道を選んで走った。

「普段のジョグもそうですし、3、4キロつづく坂道を走っていたので、最終的にはコースの最後の坂ぐらいの距離は、なんとも思わなくなりました」

 課題の克服以外にもスピード強化にも余念がなかった。

「スピードには自信があったのですが、夏にドリル練習を加えたんです。地面を蹴って、しっかりと反発をもらうとか、そういうことも意識してからさらにスピードがついてきました」

【「このまま五輪に出たらコテンパンにやられる」】

 MGCに向け、赤粼は勝つためにしっかりと準備をしてきたのだ。

 その成果が、40キロの手前付近から出た。

「小山さん、大迫さんが前に出た時は、限界が近くて無理だって思ったんですけど、そこから自分のリズムで走っていたら大迫さんが落ちてきたんです。そこでうしろにつかず、前に行った方が大迫さん的にはきついかなって思ったので前に出ました。上りは、しっかり練習してきましたし、そこで仕掛けていこうと思ったので、うまくハマったと思います」

 そう言って、会心の笑みを見せた。

 夏頃は、「まだパリ五輪で戦える力はないので、MGCでは何かひとつ自分のプラスになるレースにしたい」と語っていた。

 だが、夏からの3カ月で一気に力を引き上げ、パリ五輪の切符を掴んだ。

「今回、2位になり、パリ五輪出場の権利を得たので、少しは強くなったのかなと思いますが、レース展開を見てみると、自分は何もしていないんです。大迫さんや堀尾(謙介/九電工)さんが仕掛けていったうしろについただけですし、強い選手は自分で仕掛けて勝ち切ることができる。まだ、自分は強い選手ではないですし、このまま五輪に出たら多分コテンパンにやられると思うので、ここからこれまでとは違う練習をやっていかないといけないと思います」

 レース後、瀬古利彦日本陸連ロードランニングコミッションリーダーからは、「持ちタイムが(2時間)9分では世界では戦えない」と苦言を呈された。

 赤粼は、そこは自己流でパリ五輪に向けて調整していくという。

「課題としては、自分でレースを作ることをやっていかないといけないですし、今回30キロ手前から腸脛靭帯付近が張ってきたので、さらに補強をして改善していかないといけないと思います。タイムについては、連戦が苦手で休まないと走れないので、持ちタイムは遅いですけど、自分のやり方でこのまま五輪に合わせて行こうと思っています」

 この日、チームメイトであり、後半に前に出て引っ張った堀尾は赤粼から47秒遅れの2時間9分53秒で6位、尊敬する先輩であり、倒すべきライバルでもある大塚祥平は2時間9分56秒で8位と、10位内に3名の選手が入り、九電工はチームとしてもすばらしい結果を残した。

「九電工からの代表選手は、56年ぶりらしいですね。今回、大塚さんについては何とも言えないですが、堀尾さんのおかげで2位に入れた感じなので、ふたりに勝ったとは思ってないです。自分としては五輪の代表になっても下の選手だと思い続けると思うんです。自信がないわけじゃないですけど、何かひとつを達成したとしても満足することはない。五輪に行っても常に上を目指して、ずっと挑戦者としてやっていきたいと思っています」

 MGCでは先行する小山の背中を追い掛けたが、9秒及ばなかった。その悔しさを噛みしめ、今回以上に入念な準備をして、パリでは少なくとも何かしらの爪痕を残してくれるはずだ。

 そう思わせてくれるだけの走りと可能性を、赤粼はMGCで見せてくれた。