浦和レッズひと筋の男、山田暢久が引退後に歩んだ紆余曲折。現在は熱き指導者として奮戦中「進路も一緒に考えないといけない」
チームでの公式戦出場は725試合を数え、J1通算500試合出場も達成した。引退後は浦和のスカウトや社会人リーグの監督などを務め、今春から埼玉県のクラブチームで中学1年生を指導している。
山田には浦和のほか、名古屋グランパスや横浜マリノス(現横浜F・マリノス)、ジュビロ磐田など8チームから獲得の申し出があった。浦和と名古屋に絞った末、「弱いからすぐ試合に出られると思ったし、最初に誘ってくれた恩義もあった」との理由でJリーグ2年目の94年に浦和の一員となる。
かつて日本代表の指揮も執った横山さんは後年、山田をこう評した。
「新人なのにチームで3傑に入る能力があり、体幹の強さやスピード、持久力に優れていた。山田のドリブルが戦術を引き立ててくれるからFWで使った。仕事場の大半が右サイドだったが、真ん中で使っていたらさらに大成したと思う。どの監督もどのポジションがベストなのか迷ったようだが、それだけ希少な万能選手だったということです」
山田は歴代監督から寵愛され、GKを除くすべてのポジションを受け持つことになる。
2年目はトップ下から始まり、ボランチを経て3バックの右ウイングバックと右ストッパー。3年目が左ストッパーと右ウイングバックを務め、4年目は右ウイングバックと4バックの右SBを任された。
原博実監督が就任した5年目の98年は、41試合あった公式戦にチーム唯一のフル出場。41試合すべてで右SBに入り、翌年は右のSBとウイングバックを担った。J2に陥落した00年は右のSBとウイングバックとストッパー。01年は右のSBとウイングバックに、4バックのCBと3バックのリベロまで引き受けている。日本代表にデビューした02年、ナビスコカップで初優勝した10年目の03年は、一貫して右ウイングバックで躍動する。
元同僚のギド・ブッフバルト監督から主将に指名され、初のステージ優勝を飾った04年と天皇杯を制した05年、Jリーグ王者と天皇杯の2冠に輝いた06年の3シーズンはボランチ、トップ下、右ウイングバックの3役をこなしている。
