「燕を追い抜く新京阪」P-6形の伝説 戦前で最高120km/h ダントツ高性能電車誕生のワケ
1927年に登場した新京阪鉄道P-6形は、都市間高速電車の草分けというべき高性能電車でした。当時の国鉄で超特急と呼ばれた「燕」を上回る高速運転を行い、接客設備も国鉄2等車以上というもの。なぜこのような電車が生まれたのでしょうか。
戦前に最高速度120km/hを達成していた
1928(昭和3)年、現在の阪急京都線にあたる新京阪鉄道の新京阪鉄道線が開業。これは京阪電気鉄道の京阪本線に対するバイパス路線として計画された鉄道でした。この前年に誕生していた新京阪鉄道の通称P-6形は、日本で最初の本格的な長距離電車とされています。
新京阪鉄道P-6形電車。その後、合併により京阪神急行電鉄100形と名称を変え、その116号が現在も動態保存されている(2022年12月、安藤昌季撮影)。
新京阪鉄道は大阪〜京都間の高速運転を前提とした、いわば新幹線のような位置づけであり、当初は名古屋までの延長も考えていたようです。その高速路線に相応しい高性能電車として製造されたのがP-6形でした。P-6形は部内呼称で「Passenger-Car」の略。ちなみに新京阪鉄道での正式な形式名はデイ100(制御車と付随車はフイ500)です。
P-6形は最高速度120km/h、主電動機出力150kwであり、「東洋一の電車」とも呼ばれました。P-6形の性能は、9年後の1936(昭和11)年に登場する鉄道省(現・JR)52系電車(最高速度95km/h、主電動機出力100kw)どころか、戦後の1950(昭和25)年に登場した国鉄80系電車(最高速度100km/h、主電動機出力142kw)をも上回ります。
試運転時には、天神橋(現・天神橋筋六丁目)〜西院間41kmを27分(表定速度91.1km/h)、営業運転時でも天神橋〜京阪京都(現・大宮)間42.4kmを34分(表定速度74.8km/h)と、1928(昭和3)年当時としては日本一の高速で走りました。なお種別は「超特急」でした。
運行区間や停車駅数は異なりますが、現在の阪急特急でも大阪梅田〜京都河原町間45.3kmは43分(表定速度63.2km/h)かかり、最高速度115km/hです。路面電車のような電車しかなかった時代に、現代の特急列車にも匹敵する高速列車が現れたということです。
「燕」だって十分速かったのだ
ちなみに同時期の鉄道省最速の列車は、特急「富士」「櫻」の表定速度51.6km/hでした。1930(昭和5)年に登場した超特急「燕」では、蒸気機関車への給水時間を省くために水槽車まで連結しましたが、それでも表定速度68.2km/hでしたから、P-6形の超特急はとてつもなく速かったのです。
現在も阪急京都線とJR東海道本線は、京都府の大山崎付近で並走します。当時の新京阪電鉄は「燕を追い抜く新京阪」として、超高速運転をアピールしました。当時のダイヤを見ると、超特急「燕」と競争したのは「超特急」ではなくP-6形の急行だったようですが、「燕」を追い抜いたことがあるのは間違いないようです。
写真はイメージ。当時の超特急「燕」も、蒸気機関車が客車を牽引するスタイルだった。写真は京都鉄道博物館内を走った「特別なスチーム号」。左から8620形8630号機+マイテ49形客車+12系客車(2022年10月、安藤昌季撮影)。
なお「燕」は大阪〜京都間を36分(表定速度71.3km/h)、のちに34分で走っていましたので、最高速度こそ95km/hでしたが、現代の目から見ても決して遅い列車ではありませんでした。
また当時の関西では、1930年に個室やトイレなどの豪華設備を備えた参宮急行電鉄(現・近畿日本鉄道)デ2200系や、P-6形登場から5年後の1933(昭和8)年に、戦前の最高記録である表定速度81.2km/hを記録した阪和電鉄モヨ100系、1936(昭和11)年に日本で初めて冷房装置を搭載した南海鉄道(現・南海電気鉄道)2001形など名車が続々登場し、関西が「私鉄電車王国」と呼ばれる礎となりました。
P-6形には車内設備も特筆すべきものがありました。ソファのようなロングシートと、ゆったりとした転換式クロスシートが設置されており、当時の鉄道省2等車(現在のJRグリーン車)以上の快適設備でした。防寒防音への配慮で、側窓も二重窓を採用していました。
とにかくハイテク仕様 貴賓車も登場
さらに当時としては極めて珍しい自動ドアの設置、次の停車駅を表示する装置も備えられていました。
車体長19m、重量50tを越える重量級の車体や、バッファー付きの連結幌など、当時のアメリカの電車を彷彿とするようなデザインでもありました。実際、アメリカへ視察に行き参考にしたようですが。
京阪神急行電鉄100形116号の車内(2022年12月、安藤昌季撮影)。
なお、P-6形からは豪華絢爛な貴賓車「フキ500」も登場しました。昭和天皇が京都御所で御大典を行うのに合わせて、中間付随車として製造された車両です。
リベットのない美しい車体で、黄褐色に塗られていたようです。車内は随員室、玄関、貴賓室、化粧室、給仕室に分かれていました。貴賓室の定員は6人で、ソファが並びスコッチウールの絨毯が敷き詰められ、ダミーの大理石製マントルピース上には黒田清輝の絵画「嵐峡」が掲げられたという豪華さです。トイレは洋式、給仕室には調理台もあって、電気コンロを完備していたようです。
P-6形は増備され、結果的に73両(貴賓車を含む)が製造されました。
新京阪鉄道は1930年に京阪電気鉄道と合併、さらに京阪は1943(昭和18)年、阪神急行電鉄と合併し、京阪神急行電鉄が成立します。P-6形は京阪神急行電鉄100形(資料によっては100系)となり、クロスシートのロングシート化が行われました。さらに複電圧改造を受け、梅田(現・大阪梅田)駅への乗り入れを開始します。当時は梅田〜十三間は架線電圧600Vであり、1500V用の100形は性能低下で速度が出なかったようです。また、連結器の高さが異なる元・阪神急行電鉄の車両と併結するために、連結器の改造も行われました。
当時の整備士が電動機を保管→動態保存が実現!
戦後の1950年には、2023年現在も保存されている116号を含む6両が特急専用車両として整備され、クロスシートも復活しました。塗装は窓周りがオレンジ、腰回りがマルーン、窓下の帯と屋根は銀とされました。
翌年にかけ主電動機や制御装置が換装され、元々高性能電車だった100形は、さらにレベルアップしました。なお、不評だったのか、この時期に塗装はマルーンに戻されています。
整備士が主電動機などを保管していたため、100年近くが経った現代でも動態保存が可能となった(2022年12月、安藤昌季撮影)。
その後も1955(昭和30)年に車内照明の蛍光灯化、1959(昭和34)年より車内放送装置が搭載されるなど、サービス向上が図られました。1967(昭和42)年にATS(自動列車停止装置)も搭載されましたが、制動距離確保の観点から最高速度が102km/hに変更されています。
100形は1973(昭和48)年に引退しました。しかし特急専用車両であった116号が、1948(昭和23)年からの「20年更新工事」の状態に復元され保存されています。そしてこの時に100形整備に関わっていた係員が、主電動機や制御器を保管していたため、動態保存が可能となりました。阪急電鉄が正雀工場で開催するイベント時には、走行する姿も見られることがあります。