「ヤマハのバイク」誕生-1955.2.11短期間で作りあげた「赤トンボ」YA-1 背景に中興の祖の格言
1955年2月11日、ヤマハは全くゼロの状態からオートバイを開発し、その1号機を出荷しました。しかも、当時主流だった生活の道具としてではなく、純粋に走ることを楽しむ娯楽の機械としてでした。
近い将来バイクが娯楽になること信じて開発に乗り出す
1955年2月11日、全くゼロからバイクを作り始めたとある企業が、オートバイメーカーとしての一歩を踏み出します。その企業は、音叉のマークとヤマハのブランド名で知られた日本楽器製造。後にヤマハ発動機としてオートバイ部門を分社化し、世界有数のオートバイメーカーとなったのは、この日にYAMAHA125(YA-1)第1号機が完成・出荷されたからです。
栗茶色のスリムな車体から赤トンボとよばれたYA-1(画像:ヤマハ発動機)。
第2次世界大戦戦中、ヤマハは航空機のプロペラを作っていましした。敗戦後、しばらく航空機開発が禁止されたため、日本を占領していたGHQからプロペラを作っていた機械が返還されると、その設備を流用してオートバイが作れないかと、当時の社長で、後にヤマハ中興の祖といわれている川上源一は考えます。
当時国内でバイクは、移動や輸送など生活の手段として使用されていました。しかし、欧米を視察した川上は驚くべき光景を目にします。純粋に走ることを楽しむためバイクに乗っている人が多く、娯楽となっていたのです。帰国後、川上はいずれ日本のもそういう時代がやってくるだろうと予想し、1953年11月7日に「オートバイのエンジンを試作せよ」と極秘指令を出します。
当時ヤマハはエンジン製造の実績はなかったものの、ピアノフレームの鋳造技術やプロペラの製造で確かな技術は持っていました。しかしそれでも、ゼロからスタートいうことで作業は難航しました。
ドイツのオートバイメーカーであるDKWのRT125を参考車両として開発が進められますが、砂型鋳造によって造られた最初のシリンダーは、外観部品も兼ね備えるオートバイ用にしては美しさに欠ける鉄塊で、“どびん”とまで揶揄されることとなりました。
それでも試行錯誤を続け、当時の国産車が3段変速だった時代に4段変速とし、性能にこだわると同時に楽器製造で培ったデザイン性も生かし完成したのがYA-1でした。開発モデル選定が決まってから、わずか8か月というハイスピードでの製品化でしたが、これは「慎重とは急ぐこと」という川上の言葉を実践した形でした。
YA-1は、大学卒男子の初任給が1万円少々という時代に、13万8000円売り出すというかなり攻めた販売価格でした。最初こそ苦しみますが、始動性の速さや赤トンボと言われるようになる、スリムなデザインや鮮やかなカラー、そして、レースでの活躍により性能のアピール戦略が成功し、1957年には8804台を販売する大ヒットモデルとして成功をおさめました。