会社の男の先輩と、コーヒーブレイク。先輩のある言葉に、31歳OLは赤面し…
この世には、生まれながらにして満たされている人間がいる。
お嬢様OL・奥田梨子も、そのひとり。
実家は本郷。小学校から大学まで有名私立に通い、親のコネで法律事務所に就職。
愛くるしい容姿を持ち、裕福な家庭で甘やかされて育ってきた。
しかし、時の流れに身を任せ、気づけば31歳。
「今の私は…彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ。どうにかしなきゃ」
はたして梨子は、幸せになれるのか―？
同窓会で、憧れの先輩・アンドリューこと安藤隆と再会した梨子。食事に誘われ、このまま交際に発展するかと期待したものの、安藤の目的は、弁護士である梨子の父とのコネだとわかる。梨子の恋人探しは、振り出しに戻り…。
▶前回：同窓会は恋の始まり？憧れの人と再会し、後日ディナーへ。その帰り道、予想外の出来事が…
『安藤隆様
先日の青山の件、貴重なお時間をいただきありがとうございました。
本来ならば、弊社の弁護士にアポイントを取るためには、総合受付へのお問い合わせをお願いしております。』
梨子はオフィスで、たった今作成した安藤へのメールを読み返す。
感情的にならないようにしたつもりだったが、行間からは、静かな怒りが滲み出ている。
安藤との食事は、デートではなく、まさかのコネクション目当てだった。帰りのタクシーで告白されると期待したのに、なんともお粗末な結果になり、梨子はもやもやする。
― このまま無視するのも後味悪いから、今回はつなぐけど…。
安藤が言った『プロジェクトで存在感を出したい』という言葉が思い出される。
仕事に何の熱量も注いでいない梨子にとっては、理解不能の感情だ。戸惑いを覚えながら、再び彼の名刺を取り出すと、改めて怒りがふつふつと湧き上がった。
― にしても、お父さん紹介して、だなんて失礼しちゃう！もう私から連絡することは二度とありませんからね！
名刺をデスクに置くと、心の声を注意深く変換しながら、メールの続きを完成させる。
『しかしながら、今回は社内担当者に安藤様の件をお伝えいたします。
私個人としてはこれ以上のお力添えはできかねるため、恐れ入りますが担当者からの折り返しをお待ちいただければ幸いです。 奥田梨子』
そしてため息をつきながら父の秘書に電話をかけた。
「もしもし、父の奥田とのアポイント希望の方がいらっしゃるのですが…」
― はあ、気持ちばっかり疲れちゃう。癒しがほしい…。
梨子は、会社のスマホのロック画面を表示させた。ひそかに推しているアメリカのボーイズグループが、満面の笑みでこちらを見ている。
好きなアイドルの写真を見ること。それだけが、事務作業の間の気分転換だ。特に今日はもやもやした気分なので、いつも以上にアイドルが恋しく感じられた。
推しメンが使っている、スタッズがたくさん付いたスマホケース。Instagramでそれを目にしてから、もちろん梨子もお揃いのケースに変えている。
ロック画面を解除すると、推しに関連するニュースを流し読みした。来年、海外で開催される野外フェスに彼らが出演する、という情報をこっそりチェックする。
そのとき、沙理が大音量で騒ぐ声が聞こえた。
「この覚書の誤字脱字チェック、全然終わらない！梨子さん、どうしよう！」
つかの間の息抜きを中断し、少しミスの多い沙理の作業を手伝うために、梨子は姿勢を正した。
ランチタイムになってオフィスを出ようとしたとき、沙理から言われた。
「この忙しい時に、外でランチですか？なら、帰りに私の分も買ってきてもらえません？」
沙理の自己中心的なお願いにうっかりOKを出してしまったことに、梨子はうんざりしながら歩く。そのとき、親友の紀香から突然の連絡が入った。
『紀香：いま、梨子のオフィスの近くまで、買い物に来てるよ』
そこで『DEAN ＆ DELUCA カフェ 丸の内』で、紀香と待ち合わせ、あわただしく列に並んだ。
― あ、そうだ。何を買っていけばいいのか、沙理に確認しなくちゃ。
スマホを取り出した、そのとき。
「それ、会社用スマホ？」
紀香が、唐突に聞いてきた。
「そうだよ。仕事が大変な時に息抜きできるように、推しのエッセンスを少し入れているの。自分だけのひそかな楽しみなんだ♡」
推しメンが使っているのは、ショッキングピンクのスマホケースだ。だが、会社のスマホにそれはやりすぎだと思い、色違いのグレーのケースを選んだ。
梨子は、そのこだわりを説明する。しかし紀香は、まったく共感してくれなかった。
「それ、やるなら自分のスマホで思いきりやったほうがいいよ。その中途半端に派手なケースも梨子のキャラとあってないし。
ロック画面だって、うっかり見ちゃった人も反応しづらいわ。会社は会社、趣味は私物で楽しめば？」
― 私にも癒しが必要なのに。でも紀香の指摘は、だいたい正しい…。
紀香と別れ、沙理のために、テイクアウトのサラダボックスを持ってオフィスに戻る。
「あ、ありがとうございまーす」
沙理は軽くお礼を言いながら、梨子の手に握られたスマホをちらちらと見ている。
なんだか気まずくなった梨子は、自分の席に戻るとカバーを外し、ロック画面もデフォルトの時計機能に切り替えた。
沙理から押し付けられた誤字脱字チェックはなかなか終わらず、午後の時間はあっという間に過ぎていった。
梨子の会社用スマホは相変わらず地味なまま。カバ―は、私用スマホに付け替えた。
こんな時こそ、息抜きに“スマホ推し活”をしたい。しかし、機密情報を取り扱う職場で、私用スマホを頻繁に取り出すのは気が引ける。
― 早く仕事を終えて、スマホの中の推しに会いたい！
その一心で、梨子は血走った目でPCに向かっていた。
◆
― 終わった…。
17時過ぎのオフィス。何とか仕事のめどが立ち、梨子はよろよろとエレベーターホールに向かう。
― 誰もいないよね。
周りを確認しながら、そっと私用のスマホを取り出した。
ロック画面はもちろん推しメン。裏には、手帳に貼っていた数年前の来日ライブで買ったステッカーを貼りなおした。
― はあ、お待たせ、私の推し。恋すらできず、仕事に忙殺される今、あなただけが心のよりどころ。
「あのう、お疲れさまです、先輩」
気がつくと後輩の美央が隣でおずおずと話しかけている。目線は、なぜか梨子のスマホにくぎ付けだ。
「お、お疲れさま。あ、これ？なんていうか…」
美央は大きく目を開きながらバッグから自分のスマホを取り出した。その裏に貼られたステッカーを見て、梨子は思わず叫び声を上げる。
「えっ、美央ちゃんもあのライブ行ったの？」
「はい、私も大好きなんです。そのスマホケースも、お揃いのやつですよね！」
「えーっ！」
2人は、エレベーターホールに響き渡る歓声を上げて手を取り合った。
― 1週間後 ―
梨子は上機嫌でPCに向かっていた。
― 私にも可愛い後輩ができたわ。
同じアイドルを推していることがわかった美央とは、意気投合し、LINEでやり取りする仲になった。
― 美央ちゃんも、推しに会えないつらさを我慢してお仕事しているのね。私も頑張る！
「奥田さん、お疲れさま」
ふいに話しかけられて顔を上げると、弁護士の田村翔馬が、コーヒーが2つ乗ったトレイを持って立っていた。
「これ、クライアントミーティング用に頼んだんだけど、キャンセルになっちゃって。よかったら飲む？」
田村は、35歳という若さにして、パートナー弁護士の候補になっている。二つ返事をして受け取り、彼に誘われるまま、休憩スペースへと移動した。
「最近の奥田さん、なんか変わったよね」
「え？」
「いい意味で殺気立っているっていうか…」
翔馬が、笑いながら言った。
― それは…推しに早く会いたくて、1秒でも早く仕事を終わらせるためです。
正直に答えるわけにもいかず、「やりたいことが多すぎて」とお茶を濁した。
「そうなんだ。いつもサポート感謝してるよ」
― ふーん。ほとんど話したことなかったけど意外といい人なんだ。
コーヒーをすすりながら、全身を改めて盗み見る。整っている横顔に、きれいにアイロンがかかったシャツ。
ちらりとのぞくジャケットの裏地に『S.Tamura』と刺繡がされているところを見ると、スーツはオーダーメイドだろう。
「奥田さんみたいに仕事をてきぱきこなす子って魅力的だよね。頼りがいのある先輩って感じで」
― えっ。私が魅力的？
その言葉だけで梨子は、早くも翔馬に心が揺さぶられる。
◆
つかの間の休憩を終え、席に戻ると、PCに美央からのチャットが入っていた。
『先輩、田村先生とコーヒー飲んでましたね！仲いいんですか？
来週、田村先生も来る弁護士先生方との飲み会に呼ばれているんですが、一人で行く勇気がありません。よかったら一緒に行きませんか？』
― 社内の飲み会なんていつぶりかしら？
翔馬に褒められ、美央に頼られ、さらに機嫌をよくした梨子は、快く「OK」と返信する。
そしてさっそく、何を着ていこうか考え始めた。
― それまでに美容院に行って、ネイルもして、それから、一応仕事もちゃんとやらないとね。
― よし！もっと頑張ろう！
勢いづいた梨子は、上司のデスクに歩み寄り、いきなり声をかけた。
「なにかお手伝いできることはありますか？」
入社してこの方、与えられた仕事だけを黙々とこなしてきた梨子の突然のやる気に、上司が目を丸くしている。
― 私、今いい感じじゃない？
翔馬から、書類のまとめ方を質問するチャットが入った。美央も最近ではなにかと梨子に助けを求めてくる。
― みんな私を頼りにしてくれているのね。もっと頑張っていいところを見せなくちゃ！
「沙理ちゃん、コピー機のトナー、切れてたわよ。私が換えておいてあげる！」
「…え？別にそれは、私たちの仕事ではありません！」
沙理の痛烈な返しも耳に入らず、梨子は自信満々にオフィスを闊歩するのだった。
▶前回：同窓会は恋の始まり？憧れの人と再会し、後日ディナーへ。その帰り道、予想外の出来事が…
▶1話目はこちら：「彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ」31歳・お嬢様OLが直面した現実
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上司への直談判に職場恋愛の予感。梨子の人生は一気にアリへと動き出す…？
