JR郄岡駅の「大伴家持」像。万葉集には彼の歌が最も多く収録されています(写真:skipinof/PIXTA)

日本の古典文学というと、学校の授業で習う苦痛な古典文法、謎の助動詞活用、よくわからない、風流な和歌……といったネガティブなイメージを持っている人は少なくないかもしれませんが、その真の姿は「誰もがそのタイトルを知っている、メジャーなエンターテインメント」です。

学校の授業では教えてもらえない名著の面白さに迫る連載『明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」』(毎週配信)の第4回は、およそ1300年前に誕生した現存する日本最古の和歌集『万葉集』の最後に登場する「大伴家持」について解説します。

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「大伴家持」の歌が全体の1割を占める万葉集

『万葉集』は全20巻ある。とても長い大著である。収録されているのは、4516首もの和歌。なかでも最も多く収録されている歌人。それは、大伴家持(おおとものやかもち)だった。彼の歌は、なんと473首。そう、収録歌のうち1/10は、大伴家持が占めているのである。

国語の教科書だと、「防人歌や貧窮問答歌をはじめ、万葉集には庶民が詠んだ歌や庶民のことを詠んだ歌が多数収録されている」と言われるのだが、もちろん、それは間違いではない。平安時代に編纂された『古今和歌集』などに比べたら、庶民に向いていることは確かだろう。

しかしどう考えても最も多い歌人は家持なのである。

なぜの歌がなんでこんなに多く収録されているのか。まずは万葉集の巻ごとの説明から始めよう。

古今和歌集と比較すると、万葉集の歌の並び方は、それはもうバラバラだ。古今和歌集というと、「春」「夏」から始まる、部立という章の秩序がきちんと並んでいる。しかし万葉集の場合は、全20巻を貫く部立があるわけではない。かといって、年代順に並んでいるわけでもない。

そもそも万葉集は、後から少しずつ歌を付け加える形で今のような形になったらしい。そんなわけで、最初から全20巻の大著にするつもりでカテゴリーを作ったわけではないらしい。

しかし、巻ごとに何となくテーマは存在する。そして部立も、巻ごとにはいちおう存在するのである。巻の特徴を説明すると、以下になる。

巻1〜4、6:初期の歌を中心に掲載。雑歌・相聞・挽歌という部立にはっきり分かれている

巻5:漢詩文と和歌・書簡を掲載。旅人と憶良を中心とした、大宰府で詠まれた歌多め

巻7〜12:「昔の和歌」と「最近の和歌」をセットで並べるという、意欲的な試みをしている巻。民謡の歌があったり、四季の部立があったり、バラエティーに富んでいる

巻13:雑歌・相聞・問答・譬喩歌・挽歌の長歌を掲載

巻14:東歌を中心に、地方の民衆のつくった短歌を掲載

巻15:新羅への使いを送った時の歌+防人歌

巻16:和歌といっしょに、和歌を作ったときの話を載せている巻。歌物語の原型の歌も多い

巻17〜20:大伴家持歌日誌

……「巻17〜20:大伴家持歌日誌」。全20巻中、ラスト4巻が、彼の和歌日記なのである。それは家持の和歌数が多くなるはずだ。

仕事の成功だけが正義ではない

万葉集の編纂者も家持ではないか、といわれている。万葉集の生まれた経緯、作者などはいまだはっきりわかっていない。が、家持の歌日記が最後に収録されているってことは、彼が作者だからでは……? と推測されているのである。

家持は、父が大伴旅人(おおとものたびと)、幼いころに母を亡くしたので母代わりだった叔母さんが坂上郎女(さかのうえのいらつめ)。どちらも万葉集に歌が掲載されている、超有名歌人である。つまりは家柄からして、和歌のサラブレッドだった。

が、彼は父と違って、政治的にはかなり不遇な立場に追いやられることが多かった。なぜなら彼の生きた時代は、藤原家と橘家が抗争していた時期にちょうど重なるからだ。

しかし赴任することになった越中で歌を200首以上作ったり、または難波で防人たちと交流したり、それがもとになって防人歌が万葉集に収録されることになったり……和歌での成果は存分にあった。万葉集がこれだけ豊富な、充実した歌集になったのも彼の功績がかなり大きい。そしてそれは彼の仕事が、中央政権で成功しなかったから、という側面が大いにある。

万葉集は、家持の仕事がうまくいっていたら、今みたいな名著にならなかったのかもしれない……。そんなふうに思うと、仕事の成功だけが正義ではないな、なんてことも思ってしまう。

さて大伴家持といえば、恋の歌をさまざまな女性とやり取りしていることでも有名だ。

なでしこが花見るごとにをとめらが笑まひのにほひ思ほゆるかも(巻18・4114)
(なでしこの花を見るたび、彼女の素敵な笑顔を思い出してしまうんだ)

なんというロマンチストな歌! 日本人男性と思えないキザっぷりである。しかしそれもそのはず。当時はまだ奈良時代、のちの平安時代ほど和歌のルールがはっきり決まっていなかった時代だ。

鳥や花といったモチーフを、和歌でどうやって取り入れるのか? そんな和歌の「修行」を頑張っていたのだろう。

上の歌も、恋愛の歌と考えるとロマンチックだけど、一方で「なでしこ」を和歌に詠むとしたら?という勉強の歌でもあったのだろうと想像できる。

ド直球のジャニーズみたいな和歌

あるいは、若かりしころはこんな歌を年上女性につくったりもしている。

百年に老舌出でてよよむとも吾は厭はじ恋は増すとも(巻4・764)
(あなたが100歳になっておばあちゃんみたいに舌が出て、腰が曲がっても、嫌いになったりしないよ。もっと恋しくなることはあるかもだけど)

この和歌を受け取ったのは紀女郎。彼女の名誉のために言っておくと、年齢はおそらくまだ30代くらいだったはずだ。しかし年上であることを気にしたのか、「もう年取っちゃったわ」という歌を詠んでいる。

それに対しての家持の返歌が、上のとおりだ。ド直球のラブレター。ジャニーズみたいな和歌を詠むじゃないか、とこの歌を見るたび思う。

ちなみに当時、家持は妻の坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)を旧都に置いて、単身赴任でやってきたのである。おそらく同じく官職に就く女性だった紀女郎もまた、恭仁へやってきていた。

しかし平城京へ都が戻ってきてから、ふたりの歌のやりとりは万葉集に収録されていない。だからこのふたりのやりとりは、家持の若いころの年上女性との恋愛……くらいに紹介されやすい。

家持の歌の前に紀女郎はこんな歌を送っている。

玉の緒を沫緒に搓りて結べらば在りて後にも逢はざらめやも(巻4・763)
(私とあなたの縁は、そうね、きっと水の泡を結ぶことができたならいつか会えるでしょう)

紀女郎はたぶん、若き恋人が、単身赴任を終えたら自分から離れることがわかっていたのかもしれない。「沫緒」の意味は解釈がわかれるところだが、おそらく水のしぶきが重なってゆるやかに結び目をつくること……つまりはほぼ不可能であることの例えだ。

私たちの縁は、水のしぶきが重なり合って結ばれるくらいの奇跡が起きたら、また続くこともあるのかしらね。

そんなふうに言う紀女郎に、家持は「あなたが100歳になっても好きだよ」という和歌を贈る。和歌に手練れの年上女性と若き和歌の天才の恋を象徴するようなやり取りだったのだ。

「万葉集」にもボーイズラブ?

さて、家持の和歌の相手は、女性だけに限らない。例えばこちらの歌。赴任先の越中から都へ帰ることになった時、友人の男性・池主に贈った歌だ。

我が背子は玉にもがもなほととぎす声にあへ貫き手に巻きて行かむ(巻17・4007)
(愛おしいきみが、真珠だったならいいのに。そしたらほととぎすの声と一緒に紐で通して、僕の腕に巻いておきたいな)

相手は友人の男性だが、ラブ全開の贈答歌だ。ボーイズラブ!?と思ってしまうが、しかしどうやらこれは当時の教養あふれる遊びだったらしい。つまり恋愛の和歌とはこういうもの、という知識をお互い見せることによって、和歌を贈り合う戯れ。

実際、池主はこんな和歌を返している。

うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む(巻17・4010)
(恋しくて愛おしいあなたが、なでしこの花だったならいいのに。そしたら私は毎朝見られるのにな)

真珠に対して、花で返す池主も池主で、ノリノリである。和歌というと気難しいイメージがあるが、奈良時代はまだまだコミュニケーションツールの1つだった。家持や池主の歌を読むと、そんな事実を再確認できる。

(三宅 香帆 : 文筆家)