子どもたちに経験してほしい「民主主義」とは?(写真:ペイレスイメージズ1(モデル)/PIXTA)

宿題・定期テスト廃止や固定担任制の廃止など、先鋭的な学校改革で注目を集めた工藤勇一氏(現・横浜創英中高校長)。そんな工藤校長が考える、不確実な未来を生きる子どもたちに、本当に身につけてほしいこととは? 教育哲学者・苫野一徳氏との新刊『子どもたちに民主主義を教えよう──対立から合意を導く力を育む』から抜粋してご紹介します。

トラブルは絶好の学び場

ある日の放課後、横浜創英の校長室に中学1年生の男子生徒4人がなだれこんできました。明らかにトラブルを抱えた様子です。

「おお、どうした?」

私がたずねると、そのうちの3人が残りの1人、A君のことを一方的に批判しはじめました。

「そうじゃない、こいつらが悪いんです」

A君もA君で一歩も引きません。よくよく話を聞くと両方に悪い点はありそうですが、原因をつくったのはどうやらA君。課金ゲームのためにお金を借りて返さないそうです。

さて、みなさんが私の立場なら、この事態にどう対処するでしょうか。

A君だけ校長室に残して説教しますか?

さらに詳しく事情を聞き、事実関係を整理していきますか?

すぐさま担任を呼び出して、対処を委ねますか?

私はいずれのこともしませんでした。

私は興奮気味の彼らにむかって、まずこう言いました。

「え、これって僕に仲裁してほしいのかい? それとも不満を聞いてほしいだけなのかい? いったい僕に何を求めているの? 僕が間に入ることはできないわけじゃないけど、この問題を解決するのは君たちだよ。わかってる?」

彼らは予想外の言葉に少し驚いたようでした。それから私はこう続けました。

「そうは言っても、いまは3対1の状態だから明らかにA君の分が悪い。だから、少し手を貸すことにするよ。全員に僕から1つだけ確認したいことがある。とても大事なことだからしっかりと答えてほしい。じゃあ、いくよ。君たちは1年生で、この学校であと5年以上(中高一貫校のため)過ごすわけだけど、このいがみあいを5年も続けたいのかい?」

4人の返答はいずれも「いやです」。

私はあえてオーバー気味に反応しながら、こう言いました。

「おお! ということは、君たちはいがみあいをやめたいということで合意したわけだ。でも、いまの様子じゃ、明日以降も続きそうだよね。だって、一方が一方の悪いところを批判しては、反発しあい、また批判する。終わりがないよね。でも君たちは全員一致したよね。明日からいがみあわない生活をしたいって。いがみあいを止めるのは僕じゃないよ。僕にはできない。それができるのは、君たちだよ。じゃあ、どうするのよ?」

すると彼らも、「この問題は自分たちでどうにかしないといけない」と悟ったようで、最終的にA君がお金を返し、もとの関係に戻りました。

子どもたち同士の間で対立が起きたとき、私はこのような形で仲裁をしています。私自身が「裁判官」や「警察官」になることをできるだけ避け、当事者である子どもたち自身に、問題の解決にあたってもらうのです。

多数決=民主主義、という思い込み

なぜ私がこのような手段をとるのか。それは、子どもたちの多様性の中で生きていく力を育てたいからです。そのためにも、「学校を民主主義を教える土台」にする必要があると考えています。

私の考える民主的な社会とは「誰一人置き去りにしない社会」のことです。これは、SDGsの理念でもあります。具体的にいえば、自分の居場所がちゃんとあって、自分らしく生きることができて、意思に反したことを強要されたり権利が不当に侵害されたりすることがない社会。そして、みんな自由だけど、平和的に共存できている社会です。

一方、日本で一般的に認識されている民主主義とは「多数決で物事を決める社会」です。議会制民主主義とほぼ同じ意味。それは本来の民主主義の観点からすればずいぶん低次元の話をしているのではないでしょうか。なぜなら多数決という仕組みは少数派を容赦なく切り捨てる可能性が高いからです。

たとえば、文化祭で出し物を決めるとき、最終的にA案とB案が「8:2」で分かれたとします。するとほぼ間違いなく多数決でA案が採用されます。A案を支持した人はうれしいですし、教員も「民主的に解決できてよかったな」と満足げな顔をする。でもそこで置き去りにされるのは、かたくなにA案に反対していた子どもの意思です。

しかも、日本では少数派を切り捨てた揚げ句、「一度みんなで決めたことはやり通せ」と言います。教室では「ダイバーシティーが大切だよ」「マイノリティーの権利を守りましょう」と言っている教員が、罪悪感をいっさい抱くことなくマイノリティーを切り捨てているわけです。

期日内に決めないといけない重要な議題の多い国会運営なら、ずっと対話しているわけにもいかないので、多数決で市民の代表を選び、多数決で議決をとる議会制民主主義という仕組みを採用する。これは仕方がないことだと思います。

でも日本の学校に、そこまで切羽詰まった議題はないはずです。それなのに、いとも簡単に、当たり前のように、多数決で決める。以前、小学校の教員対象の講演を行った際、「先生方は日頃教室で多数決を使っていますか?」と、あえて尋ねてみたことがありますが、なんと一人残らず全員が「イエス」。妥協している感覚すらありません。

対話で子どものアイデアを引き出す

では、実際に学校の現場で、多数決を使わずに、「誰一人置き去りにしない社会」をつくるとはどういうことでしょうか。

たとえば、ある学級で8割の子がダンス派、残りの2割が劇派に分かれたとします。最近はSNSの影響でダンスが人気ですね。一方で「人前で踊るなんて絶対にイヤ!」という子も当然いるわけです。ここで多数決を使ってしまうとそういう子たちが苦痛を感じるだけです。

しかし、麹町中のように「少数派を切り捨ててはダメよ」と普段から教えていれば、答えを見つけるまで対話を続けるしかない。ダンスに決めたら誰が困るのか、劇にすると誰が嫌な思いをするのか。誰の不利益にもならない方法はないのか、と。

すると、ある子どもからアイデアがでてきます。

「ミュージカル風の劇ってどうだろう?」

何幕かの構成にして、ダンスをしたい子はダンスパートで踊り、劇がしたい子は劇のパートで演じ、人前にでたくない子は舞台照明や音響、脚本などの裏方につく。これならみんなやりたいことができて全員楽しめるよね、と。

多数決の問題は、言い方を変えると「利害関係の対立をそのまま放置する」ことです。多数決を小さなときから学校で当たり前にやっていれば、「対立が起きたら相手を打ち負かせばいい。負けたら従うしかない」という発想をもった大人しか育たないのは当然です。だからこそ私は、子どものうちから対話を通して対立を解消し、誰も置き去りにしない社会をつくっていく体験をさせてあげることが必要だと考えています。

「好き勝手に言うだけ」を脱するコツ

もちろん、対立のある状態から合意に至ることは決して簡単ではありません。そのときに欠かせないのが、やはり大人の適切なフォローです。単に対話を続けさせたところでみんな好き勝手に意見を言うだけですから。感情的な対立に発展したり、好き嫌いの話になって平行線をたどったりと、話が前に進みません。

対話にはコツがあります。それが、私がかつて校長を務めた麹町中でも徹底している「みんながOKと言える最上位目標」という概念です。みんなで意見をだしあって何かを決めるときは、必ず最初に「みんながOKと言える最上位目標」を決める。そして最上位目標で合意ができたら、それを実現する手段をみんなで考えるのです。

たとえば、麹町中の文化祭の最上位目標は「生徒全員で観客全員を楽しませる」でした。文化祭とはそもそも芸能のようなイベントの集合体です。体育祭のように自分たちが楽しめればいいというものじゃない。ダンスにしても演奏にしても、観てくれる人たちに喜んでもらえないと意味がない。ですから、「観客全員を楽しませる」を達成しないといけないんです。

この目標は、校長の僕から提示しました。これをみんなの共通のゴールにしようよ、と。もちろん文化祭の実行委員や生徒会役員が納得するまで丁寧に説明しました。

対話をしている最中はいろいろなアイデアがでてくるので、小さな意見対立は起きます。でも「これって何のためにやるんだっけ?」というところで合意ができていれば、深刻な対立に発展しづらい。それに、自分のアイデアが採用されなかったとしても、自分が合意している最上位目標が実現すれば、少なくとも「置き去りにされた」という感覚にはならないはずです。

子どもたち同士の対話を促す取り組みをしている学校は全国にありますが、最上位目標として「誰一人置き去りにしない状態」を目指しているかどうかで、その学校が民主主義教育をしているかどうか、はっきりわかります。

もし最上位目標を設定しない、もしくは最上位目標で合意していない状態で対話をさせているとしたら、正直かなり無責任なことをしていると感じます。なぜなら、対話によって対立を乗り越えることは、日本では大人もできないのに、子どもならできると考えるのがおかしいからです。

数の暴力ではなく、対話の訓練を

試行錯誤の経験を通して、子どもたちは学んでいきます。ですから、時間がかかります。4年ぐらいの時間をかけて変えることができたものもあります。たとえば麹町中には、伝統行事だった学級対抗の合唱コンクールがありましたが、これは生徒たちが自らなくしたものです。


最上位目標での合意についても、必ずできるはずです。やることは「誰一人置き去りにしない状態」「みんながOKと言える最上位目標」とはどんなことなのかを考えればいいだけですから。たとえばアイデアを大量にリストアップして、「これを実現させたとしたら不利益を被る人はいるだろうか」と、消去法で絞り込んでいってもいいわけです。

そしてそれが決まったら、あとは子どもたちに「この状態を目指して仕組みやルールづくりをみんなでしてごらん」と言えばいいだけです。市民教育の字面だけだと難しそうに見えますが、実はこんなにシンプル。

繰り返しますが、子ども同士の小さなトラブルは、絶好の学びです。解決にいたる筋道だけ教えて、大人はそれ以上、介入しない。なぜなら、学校とは「対話の訓練」をしてもらうための場所だからです。「誰一人置き去りにしない社会って、こうやってつくるんだ!」。その経験と実感を持った子どもが社会にでていくことが、日本を民主的に成熟した国へと成長させる。私はそう確信しています。

(工藤 勇一 : 横浜創英中学・高等学校校長)