廃止から30年超「JR標津線」のいま 北海道東部に残る長大路線の痕跡 地域は車社会に
北海道東部にはかつて、総全長116.9kmにおよぶ鉄道「JR標津線」がありました。廃線となり30年超、いまどうなっているのでしょうか。
1989年4月29日廃止の「標津線」
JR西日本とJR東日本は2022年4月と7月、乗客が極端に少ない在来線の赤字区間を公表しました。国鉄がJRに生まれ変わって35年、「地域の足」の確保が再び大きな課題となっていますが、全国でローカル線の赤字問題が大きく取り上げられたのは、昭和の時代も同様でした。
そのあおりをうけた路線のひとつが、北海道東部の長大路線「標津線」です。釧網本線の標茶駅から北東へ、中標津空港のある中標津町を経由して海沿いの根室標津駅に至る本線と、中標津から南下して根室本線の厚床駅に至る支線からなる路線でした。
標津町内に残る根室標津駅跡の転車台付近(加賀幸雄撮影)。
赤字ローカル線が社会問題化したのは、国鉄時代の昭和40年代以降でした。1980年に国鉄再建法が成立し、1990年4月までに83線がバスまたは第3セクター鉄道などへ転換しました。そして、標津線も平成に入ってすぐの1989年4月29日に廃止されています。
標津線はもともと北海道東部に広がる根釧台地を開拓するために、1937年に完成しました。その全長は116.9km。廃止までは当然のように存続を求める地域の要望がありましたが、その声もむなしく廃止されてバス路線へ転換されたのです。
廃止から30年超、標津線の痕跡は、今も北海道東部エリアに残っています。
各所にあった「標津線」の足跡…そして現状は?
標津町の根室標津駅跡には、転車台とC11蒸気機関車が残され、別海町の西春別駅跡の鉄道記念公園には記念館があります。
記念館には実際に駅で使われた乗車券箱や、標津線の歴史図表、最終列車のヘッドマークなどが残され、D51蒸気機関車とディーゼル気動車キハ22が展示されています。ちなみに、「D51-27」と銘板が付くこの型式のD51は、案内看板によると日本に1台しか残っていないサハリンで走った車体ということです。
別海町の郊外には、標津線の上春別駅のホームも残されています。防風林にあるこの駅跡では案内板と駅名標が、かつての姿を伝えています。
別海町に残る、かつての上春別駅の駅名標(加賀幸雄撮影)。
中標津の街中で、周辺の方に標津線について質問してみました。すると「子供の頃に見た記憶がある。今は車社会で、このあたりの人は皆車を持っているし……」と、淡々としていました。――周辺の方にとって標津線は思い出として残ってはいるものの、いまやこのエリアの方の日々の暮らしは、モータリゼーションの中にあることが感じられました。
冒頭にあげたJR東日本と西日本はこれから、赤字区間の収支改善へ取り組むことになります。大きな議論が控えていますが、標津線をはじめとしたかつての赤字ローカル線のその後は、将来への参考になるでしょう。
歴史遺産として伝えつつも、視線を沿線の方の「将来の暮らし」を向上させることへ向ける――。令和の鉄道の赤字への取り組みは、こうした意識も参考になるのかもしれません。