「奥さんがいるんでしょ？別れましょう」そう告げた夜、男がなぜかにっこり笑ったワケ
「変わってやる！」
そう思った瞬間から、人生はアップデートされていく。
10年前の恋愛の傷から、着飾ることをやめノーメイクで生きてきた春野菜月（29）。
そんな彼女が、変わることを決意したら―？
◆これまでのあらすじ
経営者・大翔を好きになり、冴えない自分をアップデートしてきた菜月。しかし恋人同然の関係になった彼が既婚者であることを知り、別れる決意を固めた。
▶前回：「既婚者だけど、愛してる」敏腕経営者を支える24歳女が語った、とんでもない恋心
「明日会えませんか。別れ話をしたいです」
菜月が送ったLINEに「わかった」と返事が来たのは、翌朝だった。
― あー。なんだか朝からむなしいな。
別れると決心した後で悲しくなるのは、大翔との楽しかった時間が嫌でもよみがえってくるからだ。
気を紛らわせるために、カーテンを開ける。外は快晴だった。
ベランダに出て目の前の大通りを見ると、若いカップルがじゃれあいながら歩いていくのが目に入る。
― いいなあ。私だって、明るくて楽しい恋がしたい人生だった。
菜月はもう、どこか諦めモードだ。恋愛をして、また傷ついたのだ。正直、もう恋愛はこりごりだと思っている。
「とりあえず、仕事しよう」
恋愛と違って、仕事は自分の頑張りに応じて順調に前進してくれるからいい。
集中して3本ものウェブミーティングの通訳をこなし、あっという間に夜になった。
「18時に表参道のカフェで」
大翔との待ち合わせに指定されたのは、裏道にある小さなカフェだった。店内に入ると、大翔は既に席についていてパソコン作業をしている。
「おお」
菜月に気づくと、表情をすこしだけ和らげた。
「菜月ちゃん、急に別れ話だなんて一体どうして？」
大翔は、いつも以上に甘い声色で言う。その雰囲気に飲まれないよう、淡白に言葉を返した。
「どうしてって、大翔さんが最低だからです」
注文したホットコーヒーが到着し、ほわほわと湯気を立てる。
「最低って？」
「隠してたんですね。奥さんがいるって」
そう言うと、大翔の表情から甘さが消えた。それきり彼は何も言わなくなる。
「なんか言ったらどうなんですか。…というか、なんで笑ってるんですか？」
なぜか大翔は、黙ったままにっこりと笑っていたのだ。
大翔が浮かべた笑み。その真意は…？
大翔は、菜月のマグカップから立ちのぼる湯気を見つめながら、笑ったまま小さく口を開いた。
「いやあ…楽しかったなあと思って」
「はい？」
「菜月ちゃんといた時間、ほんとに楽しかった」
肩透かしを食らった気分だった。
こっぴどくフってやろうと思っていたのに、大翔はフラれる前に自分から「思い出モード」に突入したのだ。
それから彼は、柄にもなくテーブルに両手をついて頭を下げてみせる。
「嘘をついてたことは、悪かった。でもさ…」
わかりやすく肩を落としてから、眉間にしわを寄せて大翔は言う。
「こんなに短期間で誰かに夢中になったのは、菜月ちゃんが初めてだったよ…。夢中になりすぎて、後先考えずに動いてしまったんだ」
― そんな悲しい顔をされても…！
困惑していると、大翔は再び笑顔になった。
「ねえ。俺、嫁とずっと全然上手くいってないんだ。もういい加減別れようと思ってる。だから菜月ちゃん、もう少しそばにいてくれない？」
「え？」
菜月は不機嫌な表情を浮かべるが、大翔には通用しない。
「離婚できたら、すぐに一緒になろうよ。それまで待てるかな？代わりに好きなところに部屋を借りてあげるし、なんでも買ってあげる」
大翔は「だから別れないで、待っててほしい」と念を押した。整った笑顔だ。この顔が、ついこの間までは大好きだった。
「結構です」
静かに大きく首を横に振る。そして、コーヒーを飲み干してから言った。
「私、よくわかりました。…そうやって、史奈さんにも離婚をほのめかして、ずるずる遊んでいるんでしょう？」
「いや…！俺は史奈より、菜月ちゃんのことがずっと好きだ」
「そういう話をしたいんじゃないです」
菜月は短いため息をついた。
「大翔さんって、人としてかっこよくない。よく考えたら当然よね。初対面であんなことを言われたんだから」
立ち上がりながら菜月は、一緒に取り組んできた仕事について、早急に切り上げさせてもらいたいと伝えた。
そして、去り際に捨て台詞のように言った。
「大翔さんになんか、出会わなきゃよかったです」
「じゃ」と鞄を手にとって歩き出そうとしたそのときだった。
大翔のボソッとした声が耳に届いた。
大翔がつぶやいた、とんでもない一言とは？
「少しは感謝してもいいんじゃないの？俺のおかげで人生マシになったくせに」
「…はい？」
「だって最初に会ったときの菜月ちゃん、ホントにパッとしなかったよ」
睨みつける菜月の顔色など気にせずに、大翔は煽るように笑った。
「もし俺に会わなかったら、一生ああいう見た目で、くすんだ色の人生を過ごしてたんじゃない？俺のおかげで変われたんでしょ？」
大翔の笑みは、挑発的だった。
菜月は無言でカフェを出て、ファッションビルの壁にもたれながら何筋もの涙を流した。
― これだから、恋愛はイヤなのよ。いつも傷ついて終わるの！
大翔のために、この数ヶ月たくさんの自己投資をしてきた。自分を磨いて、なんとか好かれようと努力してきた。
しかし残ったのは、痛みだけだったのだ。
泣き晴らした目で空車のタクシーを探しながら、茜に電話をかける。
大翔との会話の一部始終を話すと、茜は「想像以上にひどい」と嘆いた。
「ね、最低でしょ？私ホントにバカだった。茜も恭一も、あの男はやめとけって言ってくれてたんだから、素直に聞くべきだった！」
「でも菜月はえらいよ。ちゃんと自分から話しに行って、えらい」
諭すように言った茜は、「恭一にも伝えとくね。また3人で集まろう」と言った。それからタクシーが家につくまでの間ずっと、電話越しに励ましてくれた。
大翔からの連絡を待つ日々が終わった。
その分菜月は、仕事に精を出している。寂しさはあったが、心穏やかな日々だ。
そんな心の平穏が予想外なかたちで破られたのは、大翔と別れて1週間が経つころだった。
「久しぶり。茜から、いろいろ聞いたよ」
大翔との一部始終が、恭一の耳に入ったらしかった。
「二子玉川駅に行くから、ちょっと話せる？話したいことがあるんだ」
そのとき、菜月はなんとなく感じ取った。
― 恭一の「話したいこと」って、もしかして…。
恭一は、前回部屋で2人きりになったとき、あからさまに自分に気があるようなそぶりを見せた。
― いや、考えすぎかな…。
もし告白されるようなことがあったとしても、恭一は、完全に親友だ。人として大好きだけれど、恋愛という感じはまったくしない。
それに菜月は、恋愛自体もうこりごりなのだ。「今は」というのではなく、本当に一生恋愛をするつもりがなかった。
― もし…もし告白されたりしたら、「恋愛する気はない」ってちゃんと伝えよう。
そう心に決めて、恭一との約束に応じることにした。
▶前回：「既婚者だけど、愛してる」敏腕経営者を支える24歳女が語った、とんでもない恋心
▶1話目はこちら：“垢抜ける”ことを決意した夜。初対面の男から浴びせられた、プライド崩壊の言葉とは
▶Next：5月13日 金曜更新予定
恭一の「話したいこと」とは？
