仕事と恋と趣味に全力投球の女子の身に起こった“ある異変”とは？
港区、千代田区、中央区、渋谷区、新宿区。
通称「都心5区」。このエリアは、東京でもずば抜けて不動産価値が高い。
日本の高級住宅街を抱えるこのエリアに住めるのはもちろん、“選ばれし者たち”のみ。
そこに選ばれた女たちは、男、仕事、年収、プライベートも“すべて”手に入れたいと思っている。
尽きることのない欲望を持つ女たちは、白鳥のように美しくあろうと足元でもがき続けているのだ。
File7. 麻衣、渋谷区在住。すべてを完璧にこなしたい！
「麻衣さんって、キレイで仕事もできて、本当にみんなの憧れです♡」
今まで何回も、麻衣は後輩からそう言われてきた。
麻衣は新卒で入社した大手マーケティング会社で6年目を迎える28歳。社内ではそろそろ中堅の立ち位置である。
だが、どんなに仕事が忙しくても、オシャレと美容にも手を抜かず「キレイで仕事がデキる素敵な先輩」として後輩から圧倒的な支持を得ていたのだ。
麻衣の努力は、仕事や容姿に関することだけではない。
「仕事も、プライベートも、恋愛も頑張って、早く結婚して子どもを産んで、周りから憧れの存在になりたい！」
そう考えていた麻衣は、根が真面目なこともあって、恋愛と趣味にも一切手を抜かない性質だ。
そして、すべてを完璧にこなすためには、アクセスの良い場所に住み、効率よく過ごしたいと思うのは自然なこと。そのための恵比寿のマンション費用など、惜しむはずはなかった。
麻衣のスケジュール表は、平日のみならず土日も予定で埋め尽くされている。
しかし、麻衣はそれを窮屈だと思うことは決してない。
それどころか、スケジュールで埋め尽くされ空きがないことが、麻衣にとっては快感で仕方なかったのだった。
自分に厳しい性格の麻衣。忙しい日々が続くと思いきや、“ある異変”が起きる…
渋谷区恵比寿西のマンションに、麻衣は住んでいる。
恵比寿を選んだ理由は、六本木にあるオフィスに日比谷線で2駅といった近さもあるが、友達と遊んだり婚活したりするのに便利だからだ。
今は特定の彼氏はいないが、時々飲みや遊びに行く男性が何人かいるので、それなりに楽しく過ごしている。
そして、麻衣が重視しているのは、交友関係だけではない。
仕事に役立てるための英会話教室に通い、小学生の頃から続けているバイオリンは、定期的に演奏会に参加するために日々の練習は欠かさなかった。
自分に厳しい麻衣は「全部頑張らないと！」という気持ちが強く、すべてに全力投球していたのだ。
しかし…。
その性格ゆえに、無意識のうちに自分でプレッシャーを与え続けていた。
オンとオフの切り替えがないまま、仕事の時間だけでなく常に自分に緊張を強いていた麻衣。やがて、心身の不調を感じるようになっていくのだった。
◆
「あれ…私、どうしたのかしら…」
麻衣が自分の体に異変を感じたのは、会社での重要な会議を迎えた朝のこと。
資料は自分で作ったし、話す内容もきちんと整理していた。にもかかわらず、この日は朝から気分が非常に落ち込んでいたのだ。
「重要な会議だから、緊張しているだけよ…」
何度もそう思い込もうとした。
しかし、いざプレゼンが始まると、背中に脂汗が出てきて思うように話せなくなってしまったのだ。
幸い、その時は上司がフォローしてくれた。
しかし、この日を境に会議の準備をするだけでも動悸を感じるようになり、次第に満足な仕事ができない状況になっていく。
― だめよ、こんな状態では…。私はすべて完璧に頑張りたいのに！
だが、体は思うように動いてくれない…。そんな毎日が続き、麻衣はついに心療内科の受診を決意した。
◆
心療内科を受診した後に会社の産業医面談も受けることになった麻衣は、医師の診断によりしばらくのあいだ休職することになった。
「これは会社が与えてくれた休息だから、休まないといけない」
最近、良いことがあってもあまり気分が晴れなかったし、以前よりも食欲がなく体重が減ってきていることは自覚していた。だからこそ、今回の休職を前向きに捉えようと思ってはいるのだが…。
そう思う一方で、なぜこうなってしまったのか、いまいちピンとこない麻衣。
― 仕事は大好きだし、プライベートだって充実していたのに。一体なぜ…？
麻衣は自分でも予想しなかった事態に、ひとり戸惑い悩んでいた。
休職中も心が休まらない麻衣が訪れた場所とは？
「しばらくの間、ご実家でゆっくりされてはいかがでしょうか」
主治医と産業医の双方から勧められたものの、麻衣はどうも実家に帰る気にはなれず、まだ恵比寿でひとり暮らしをしていた。
だが、家で何もせず過ごしていると“ある考え”が頭をよぎってしまう。
― 今は火曜日の午前よ。みんな一生懸命に仕事をしている時間だわ。それなのに、私は一体、何やっているのかしら…。
真面目な麻衣は、仕事の考えばかり頭をよぎってしまうのだ。
平日にどこかに出かけるなんて、上司や同僚への罪悪感があってなかなかできない。かといって、英会話教室に行ったりバイオリンを弾いたりする気持ちにもなれないでいた。
八方塞がりの状況が続き、この休職が果たして本当に「休息」になっているのか、自分でもわからなくなってしまったのだった。
◆
休職に入ってから3週間後。
朝起きて窓を開けると、そこには晴れ渡った空が広がっていた。
「こんなにいいお天気だし、たまには外へ出てみようかな。といっても、どこに出かけようかしら？」
休職前の麻衣は、時間を無駄にしないよう休日も1時間単位、ときには分単位で予定を立てることが多かった。
そのため「気分でどこに出かけるか」を決めることには、あまり慣れていない。
だが、この時だけは“ある場所”が脳裏にパッと浮かんだのだ。
「あ、美術館…」
マーケティング領域ではアート志向が欠かせないことから、美術館に行くことは麻衣にとって日常だった。
とはいえ、この期に及んでも仕事を忘れられない真面目な自分に、麻衣は思わず苦笑してしまう。
しかし、思い立ったことを大事にしようと、大好きな上野の東京都美術館に向かうことにした。
◆
― まぁ、この展示にしてみようかな…。
いくつかあった展示から、ほぼ思いつきで1つ選びチケットを購入する。ただ、なんとなく「仕事とはあまり関係なさそうなテーマ」を選んだ。
さっそく展示室に入る麻衣。平日の午前だけあって、入場者はごくわずかだ。
そして、ある大きな絵画を前に、麻衣は思わず立ちすくんでしまう。
それは、19世紀半ばの油彩画だった。奥行のある自然を背景に、美しい女性の姿が描かれている。
荒野の風景と、黒いマントを着た女性のコントラストが印象的だ。そして、その女性は凛とした表情の中に、強い眼差しをたたえている。
描かれている女性は、服装から貴族かそれに近い立場の人物と予想できた。そのような女性が、なぜこんな荒野に立っているのか。
制約も多かったはずの時代の女性が、何に悩み、決断し、挑戦しようとしているのか…。
その場に10分以上いただろうか。麻衣は、ふと我に返った。
今までは完璧な姿を追い求めて、自分にしか目が向いていない状態で、まるでモルモットのようにがむしゃらに走っていた。
しかし、この絵画を見て長い歴史と広い世界に想いを馳せると、自分の悩みなどとてもちっぽけなものに思えてきたのだ。
この時代の女性たちは、やりたかったことすらも叶わなかったはず。それに比べたら、自分がやりたいことをできるだけでも、今の女性たちは遥かに恵まれているだろう。
― 私は、なぜそこまで完璧を目指して頑張っていたのかしら。もっと自分の身の回りのことを大事にしていけばよかったのだわ。
様々なことに考えを巡らせ、今までの自分の視野がいかに狭かったか理解した麻衣。
「もう少し、自分を認めてあげよう」と、ほんの少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
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