「変わってやる！」

そう思った瞬間から、人生はアップデートされていく。

10年前の恋愛の傷から、着飾ることをやめノーメイクで生きてきた春野菜月（29）。

そんな彼女が、変わることを決意したら―？

◆これまでのあらすじ

菜月は、英語学習アプリの運営会社の経営者・大翔と恋人同然の関係になった。しかし、大翔の会社の事務職・史奈から、大翔が既婚者であることを告げられる。

▶前回：六本木と竹芝…男の2つの高級マンションのうち、ひとつの部屋にしか呼ばれない女。そのワケとは




― 大翔さんが、既婚者だったなんて…。

菜月は、スターバックスの窓側の席で、向かいに座っている史奈を見つめた。

― この子は、大翔さんが既婚者だと知っていながら、平気でずっと恋をしている。つらくないのかな？

真顔で考えていると、史奈が「なんですか？」と怪訝そうに首をかしげた。

「いや…つらくないのかなって」

「どうしてですか？」

「だって、いくら史奈さんが大翔さんのことを好きでも、大翔さんは奥さんと離婚する気はないんでしょう？」

すると史奈は、微笑みながら答える。

「今は、色々な事情で無理みたいです。でも離婚したいって、よく言ってくれますよ」

― 離婚したい…そんなの、絶対でまかせじゃない？

内心そう思ったが黙っていると、史奈は念を押すように言った。

「私は、大翔くんを信じているの。だから余計な心配はしなくて大丈夫です」

菜月はふと、思い出す。

少し前に大翔に史奈について尋ねたとき、大翔は史奈を「ファン」と呼んであしらっていた。

「…史奈さん、遊ばれているだけかも」

「待って！」

史奈は丸くて大きな瞳に不満の色を浮かべて、菜月をじっと見る。

「菜月さんと一緒にしないでください。菜月さんと違って私には、大翔くんとの長い長い歴史があるんです」

それから史奈は、大翔との出会いを語り出した。


大翔と史奈の過去に、菜月が思ったあるコトとは？


出会いは、今から4年前だったそうだ。

史奈は地元の香川県で高校を卒業後、小さな会社で事務として働いていた。

しかし東京への憧れが膨らみ、社会人1年目で、突然港区に飛び出してきたという。

「とりあえず、新橋駅の雑貨屋でアルバイトを始めました。シェアハウスに住んで、生活費を切り詰める毎日でした」

そんな時に、当時大手企業に勤めていた大翔と、食事会で出会う。2人はすぐに関係を持った。

東京の街の「あらゆる贅沢」を教えてもらったと史奈はほほえむ。

「何も知らない大都会であがいていた私にとって、大翔くんの存在は太陽みたいでした」

「…大翔さんは、そのときにはもう結婚していたの？」

「はい。私と出会った時にはすでに。でも、夫婦仲は破綻していましたよ」

史奈は、声をひそめる。

「その頃、大翔くんは起業をするかどうか迷っていたんです。でも奥さんは、大企業を辞めることに大反対で」

「そう…」

「私は奥さんと違って、大翔くんが絶対に成功するってわかってた。だから背中を押しました」

そして史奈は突然、左手首の腕時計に目をやった。

「あ。私、そろそろ行かなくちゃ」

カルティエのものだ。これも大翔からもらったのだろうか。

ドリンクのカップを片付けながら彼女は続けた。

「当時の大翔くんは、まだ何者でもありませんでしたよ。そんな時代から、支え合ってきたんです。私たちは」

誇らしそうに口角を上げて、史奈は立ち上がった。

急ぎ足で去っていく史奈。その背中をじっと見つめる。

今まで史奈のことは、強引でわがままな女の子だと思っていた。根本から合わないと思っていたし、苦手意識があった。

しかし今菜月は、単純にこう思う。

― かわいそうな子。

菜月はしばらく席に残って、大翔と史奈の「長い長い歴史」を想像していた。




スターバックスを後にすると、体中が怒りで満ちていることがわかった。

「ああ、もう。最悪な展開よ」

怒りのほとんどを占めるのは、大翔に向いたものだ。自分に対して平気で嘘をついていた大翔。

しかし、それを見抜けずに体の関係まで持ってしまった自分自身に対しても、怒りの感情が湧く。

◆

翌日、茜と恭一を誘い、東京駅のイタリアンバルに集合した。

「菜月から誘うってことは、大翔さんとなんかあったのね？」

茜が、乾杯もそっちのけで聞いてきた。消えていくビールの泡を見ながら、菜月は「うん」と口を開く。

「実は大翔さんね、既婚者だったの」

「…え？」

茜と恭一は、同時に言って固まった。

「そんな顔しないでよ。なんとなく、遊び人なのかなーとは思ってたし。まさか既婚者だとは思わなかったけど」

乾いた笑いを浮かべると、茜は苦々しい表情で両手を合わせた。

「ごめん…」

「なんで？」

「だって、私が知ってたら、最初から止めてあげられたのに！でも大翔さん、結婚の話なんてしてなかったし、合コンしまくってたし…」

「茜は悪くないよ」

意識して、気丈に振る舞った。そうでもしないと、悔しくて涙が出そうだった。

「もう私は大丈夫。傷が深くなる前わかってよかった！だから今日は気晴らしに飲もう！」

そのとき、恭一がつぶやく。

「…傷が深くなる前でよかったって？本当はかなり傷ついてるくせに」


恭一の言葉に、こらえていた涙が溢れる


…確かにそうだ。

正面から向き合って考えないようにしていたが、本当は大翔に聞きたい。

一体どんな気持ちで一緒にいたの、と。

不意に涙が溢れた。すると恭一は焦りながら言う。

「ごめん、菜月。傷を広げるようなこと言って。…違うんだ。俺が言いたかったのは、もっと怒っていいのにってことだった」

ちょうどその時、テーブルの上に置いていた菜月のスマホが震え、「大翔」からの着信を知らせた。

「大翔さんだわ…出てくる」

スマホを持って腰を上げた菜月を見て、茜は厳しい顔をする。

「てか、もうブロックしちゃいなよ。今さら話すこともないでしょう」

「…でも、一緒に仕事してるから。…仕事の話かもしれないし」

「もう仕事も切り上げて、金輪際関係を断つべきよ。今、その電話で言ったら？」

「うん…」

経験豊富な茜の言うことは、大体正しい。自分でも、関係を断つべきだと思っている。

それなのに、そう簡単に大翔に終わりを告げることは、どうしてもできなかった。

「やっぱり、電話に出るのは後にするわ」

スマホをバッグの奥の方へ押し込むと、茜が悲しそうな顔を向ける。

「そっか。菜月は、まだ好きなんだね…」

「まだ好き」であるつもりはなかったのだが、今初めて自覚した。

― 簡単には忘れられない。嫌いになったつもりだったのに…。




二子玉川のマンションに帰宅すると、ペタンと座って部屋を見回した。ここには、大翔と思い出の名残りがたくさんある。

突然プレゼントされた洋服。新調したばかりの服やカバン。デパートで買ったコスメの数々は、ドレッサーの上で煌びやかな雰囲気を放っている。

テーブルの上には、大翔との打ち合わせ用ノートや、大翔のために学び直したフランス語のテキストが広げられていた。

「…楽しかったなあ」

こういう時、良いことばかり思い出される現象はなんなのだろうと菜月は思う。

イギリス留学時代の元カレ・トニーに裏切られた時も、楽しかったことばかりを思い出して、長い間苦しんだ。

心底好きになった相手だと、どんなにひどいことをされても、一瞬では嫌いにはなれないものなのかもしれない。

「でも」

菜月は立ち上がる。

― ここで断ち切れるかどうかが、モラルのある人とない人の違いよ。

モラルのない人にはなりたくない。その一心で、菜月はLINEを開いた。

「大翔さん。明日会えませんか。別れ話をしたいです」

メッセージの送信音が、一人きりの部屋に悲しく響いた。

▶前回：六本木と竹芝…男の2つの高級マンションのうち、ひとつの部屋にしか呼ばれない女。そのワケとは

▶1話目はこちら：“垢抜ける”ことを決意した夜。初対面の男から浴びせられた、プライド崩壊の言葉とは

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ついに大翔に別れ話を切り出す菜月。大翔の反応は？