MLB挑戦が「失敗だったと言われてもいい」 五十嵐亮太氏の“苦しかった”3年間
「これでもかというくらい野球と向き合った」米国で過ごした日々
ヤクルトで守護神を務め、ソフトバンクではセットアッパーとして活躍した五十嵐亮太氏。23年に渡るプロ生活の舞台は日本国内にとどまらず、米国、ドミニカ共和国、メキシコと国際色豊かだった。
日米通算906試合に登板し、70勝41敗70セーブの記録を残し、ヤクルトで1回、ソフトバンクで4回、日本シリーズ優勝を経験。個人でも2004年に最優秀救援投手に輝き、2014年にはリーグ最多ホールドをマークしたほか、球宴にも5度出場している。輝かしいキャリアを送る一方で、思い通りのパフォーマンスができなかったり、怪我に泣かされたりもした。
「23年のキャリアは振り返れば楽しいし、すごくいい時間でしたよね。野球は五十嵐亮太を作りあげる上での基礎になっている。そこで学んだこと、気付いたこと、いろいろなことが今の僕を作っているので。上手くいかないことや楽しくなかったこと、いろいろなアップダウンがあったけど、全てが僕の財産になっています」
その中でも「これでもかというくらい野球と向き合った」と振り返るのが、2010年から米国で過ごした3年間だった。メッツ、パイレーツ、ブルージェイズ、ヤンキースと3シーズンで4チームを渡り歩いた。先が見えなくなり「このままクビになるのか、引退になるのか、この程度の選手で終わってしまうのか、そう考えたこともあったから非常に苦しい時間ではありましたよね」と明かす。
だが、七転び八起き。苦しい時間を苦しいままに終わらせないのが五十嵐流だ。「アメリカは3年間しかいなかったけど、その3年は僕の野球人生の中でも本当に大きな転機だったし、自分が変われるポイントでした」と笑顔を浮かべる。
スポーツは世界の共通言語、と言われることがあるが、同じ競技であっても国や地域が変われば、文化や習慣は自ずとプレーや戦術に反映されるものだ。それは野球でも同じ。日米の野球は同じようでいて同じではない。
「自分の中では日本でやってきたことが当たり前だったり、基礎・基本になったりしているけれど、アメリカではそれだけではダメ。自分のやってきたことが正しかったのかというと、技術に関しても考え方に関しても、そうではないこともたくさんある。アメリカでは、自分の当たり前は結構当たり前ではなかったんだ、と気付かされました。
メジャーの投手って、いろいろな投げ方の人がいますよね。細かく言えばフォームを直した方がいいかもしれないけれど、その人に合っていれば良しとするところがある。それぞれの魅力にフォーカスするというか、“正しい”ことの幅が広いんですよね。このフォームでいいの? と思っても、それはそれで成り立っていたりするんですよ」
日本でプロとして11年プレーした後、向かった先で「当たり前」が揺るがされるのだから、その衝撃は相当なものだっただろう。さらに、日本とは違い、誰も自分の気持ちは推し量ってくれない。正しく理解されたいのであれば、自分で気持ちを伝えなければ、誰も酌み取ってはくれないのが米国だ。「自分の意見を言って、どうしたいのかはっきりさせる。そこは変わりましたね」と言う。
納得がいくように積極的に動いた3年目「すごくワガママにやらせてもらった」
新たな環境に順応しなければいけないことも、そこで結果を出さなければいけないことも、もちろん渡米前から分かっていたことだ。技術面で苦しむことも予想していたが、「思っていた以上に苦しかった」と振り返る。
「刺激を受けながら、結果を残すためにどうするか。なかなか自分の思い通りの結果が出なかった時、こんなに野球と向き合ったのは初めてじゃないか、というくらい向き合いましたね。日本でも向き合ってはいたけれど、その比にならないくらい、ずっと野球のことを考えていました。自分の思いを英語で伝えられない環境だったから、自問自答を繰り返す。多分、人生で一番頭が回転した時でしたね。
僕は環境は大事だと思っています。例えば、持ち球を増やそうとなった時、日本でも一通り練習したけど、結局モノにできなかった。そこで『きっと自分のフォームに合わない球種だったんだな』って自分を納得させる諦めの言葉を見つけていたんですよね。でも、アメリカではそんなことは言っていられないから必死で覚えました。やらざるを得ない状況に追い込まれたら、人はできるようになるんです。
渡米した時、成功するイメージは持ちながら、同時に難しいだろうなと思う気持ちもありました。難しいけど、環境が変わって自分がやらざるを得ない状況になればやるというのも、どこかで気付いていた。ある程度、想定はできていたんですよ。でも、思った以上に苦しかったし、辛かった。結果的にはプラスの経験になるんだけど、その時は必死でしたね」
必死でもがき、道を切り拓こうとしたのが3年目、2012年のことだった。メッツとの2年契約が終わり、パイレーツとマイナー契約。招待選手としてメジャーのスプリングトレーニングに参加したが、開幕メジャーは勝ち取れず、チャンスを求めてブルージェイズへ移籍した。開幕こそ3Aで迎えたが、5月にメジャー昇格。だが、2試合で4失点すると40人枠から外され、今度はヤンキースへ移籍。3度メジャー昇格したが、シーズンの大半を3Aで過ごした。
「メッツでは複数年契約でレールの上に乗っていた感じだったけど、3年目は自分で切り拓こうと意見をしっかり言いました。メジャー昇格のチャンスがあるチームに行きたいとブルージェイズに行ったら、3Aで成績を残しても全然上げてくれない。メジャーの選手が調子よければ仕方ない話。でも、気持ちはイケイケだったので『俺の方が力があるから早く上げてくれ』って言いました。多分、GMは困っていたと思います(笑)。いざメジャーに上がったら結果が出ずにマイナー行き。シーズン中で声が掛からない可能性もあったけど、また違うチームを探そうとなり、幸いヤンキースが拾ってくれた。
かなりドタバタしたけど、自分からドタバタしにいった感じですね。契約先が見つからなくて消えるにしても、誰かに消されるのか、自分から消えるのか。そこは自分でコントロールしたかった。自分が納得いくようにしたいと思って、ものすごくアクティブに動きました。あの時間は本当に貴重でしたし、すごくワガママにやらせてもらいました」
メジャー移籍は「失敗と言われてもいい」大切なのは失敗を次に生かせるか
自ら積極的に動いた2012年で米国に区切りをつけ、ソフトバンクと契約を結び、NPBに戻ってきた。メジャー3年で83試合に投げ、5勝2敗4ホールド、防御率6.41。決して納得のいく成績ではなかったが、それだけに「これを日本で生かさないといけないと思った」と振り返る。
「アメリカで自分のやりたいようにやって、結果が伴ったかといえばそうじゃない。これを生かさなければ自分のやってきたことは何だったのか。ここでも必死でしたね。僕はメジャー行きが失敗だったと言われてもいいと思っています。自分でも結果は大事だと思うので。ただ、その失敗を次に生かせるのか、失敗のまま終わらせるのか、これが大きな分かれ道。失敗しても次の成功に繋げればいい話で、その成功は何かと言えば、結果ですよね。だから、日本に帰ってきてから、めちゃくちゃ結果にこだわりました」
NPB復帰2年目の2014年にはリーグ最多の44ホールドを記録。引退までの8シーズンのうち5シーズンで年間45試合以上に登板し、3シーズンは防御率1点台、2シーズンは2点台の好成績を収め、ソフトバンクでは4度日本一を経験した。有言実行。失敗から得た学びを成功に繋げた。
アップダウンもありながら、まるでジェットコースターのように楽しく刺激に溢れた23年のキャリア。そこで経験したことは何ひとつ無駄になっていないという自負がある。自身と同じ道を歩めとは言わないが、プロ野球界の後輩たち、そして野球界の未来を担う子どもたちには「選択肢は多くあることを知ってほしい」と話す。
「アメリカに行った時、ここは自分で選択する国なんだと思いました。例えば、サンドウィッチを買いに行くと、パンの種類、入れる野菜、ハムなのかチキンなのかツナなのか、全部自分で選ばなければいけない。日本人にとっては面倒臭いかもしれないけど、ああいう考え方は大事なのかなと思います。僕は日本でしか野球をしていなければ、その選択肢の多さにも気付かなかったかもしれない。アクティブに活動することがいいと思う人も、そうでない人もいると思うので、もちろん押しつけはしません。でも、ウインターリーグへ行くのもひとつ、アメリカへ行くのもひとつ、選ぶか選ばないかは自分次第で、いろいろな選択肢があることは知っておいてほしいですね」
いろいろな選択肢を吟味しながら、自分の道は自分で切り拓く。人生の新章を歩み始めた五十嵐氏が、今後どんな選択をしていくのか。その意志決定の土台には、米国での3年が大きな影響を与えていると言えそうだ。(佐藤直子 / Naoko Sato)