開催するのかしないのか。国民の多くが開催に拒否反応を示す中、本当に五輪が開催されることになれば、それは多くの国民にとって、スポーツが悪者になりかねない瞬間となる。五輪がひとたび始まってしまえば、それまで開催に異を唱えていた人も五輪の虜になるとの読みは楽観的--とは、5月5日発行のこのコラム<五輪が「社会の敵」になる日>で述べた通りだ。

 開催されれば、スポーツへの風当たりが強まることは必至。スポーツの社会的な地位の失墜に繋がる。五輪を開催した意義はなくなると考える。

 日本人は他国の人たちに比べ、五輪好きだ。自分たちにその自覚はないかもしれないが、これは、これまでの取材を通して筆者が得た実感になる。一方で、スポーツはさほど好きではない。これも確信を抱く実感になる。他国に比べてスポーツへの熱は総じて低い。

 筆者は、五輪はスポーツ熱の高い国で開催されるべきだと、かねがね述べてきたが、スポーツライターを名乗りながら東京五輪の開催に、懐疑的だったこれこそが一番の理由だ。日本人の五輪好きは、確固たるベースの上に立脚しているものではないと考えるが、それはともかく、大の五輪好きで、しかも自国開催である今回の東京五輪について現在、多くの人が拒否反応を示している。巷には負のエネルギーが充満している。もし開催に突き進めば、それは爆発することが予想される。脆弱な支えが露わとなり、崩壊に向かう可能性がある。スポーツ熱の低下は否めないと言わざるを得ない。

 特に心配になるのは、野球、サッカー、テニス、ゴルフ以外の競技。いわゆる五輪競技だ。4年に1度の五輪を、最高の舞台とする競技は、マイナー競技への道を辿りかねない。

 陸上、水泳、体操は、いわば五輪の三本柱だ。五輪本大会の競技スケジュールを見れば、その屋台骨を支えるメイン競技であることが分かる。だが、それぞれの日本選手権の会場に行ってみれば、スタンドは空席だらけだ。昨年まで競泳の日本選手権が行われていた、辰巳国際水泳場の収容人員は約5000人だが、スタンドは毎年その3分の1程度しか埋まらない。しかもその大半は、出場選手やその家族、知人で占められる。現場観戦を楽しみにやってきた一般的な競泳ファンは数えるほど。千人には達しない。

 競泳が、ファンに支えられている競技ではないことは、スタンドに足を運べば一目瞭然。主催者である水泳連盟が集客の努力をしていない。あるいは無頓着であることを示す事例と言えるが、競泳を観戦する文化が浸透していないのだ。

 競泳と言えば、池江璃花子の名前が一番に挙がる。それは彼女が病に冒される前からだが、一方で、彼女の泳ぎ見たさにスタンドに足を運ぶ競泳ファンは少ない。

 しかし競泳観戦は実際、かなり面白い。展開を堪能できる適度なスピード感。レースの全貌が視界にすべて収まる見やすいビジュアルとサイズ感。基本的に接戦であること。最後のタッチの瞬間まで目が離せないこと。五輪でメダルが狙えそうなハイレベルな選手が多く含まれていること等々が、その理由だ。

 不謹慎を承知で言えば、競馬を見ているような感覚に浸ることができる。だが、くり返すがその魅力は、世間に十分伝わっていない。積極的に伝えようとする姿勢も見て取れない。一方でニュースには取り上げられる。日本新記録が生まれれば扱いは大きくなる。

 そのギャップを埋めているのはテレビだ。競泳の日本選手権の模様は毎年、NHKよって中継されているが、この構図はよく考えれば、無観客試合を中継する行為とそう変わらない。主催者である水泳連盟が、その競技の普及発展を、観衆を通してではなく、テレビの力に頼っているのが現状だ。