巣鴨子ども置き去り事件から30年『誰も知らない』状態で育つ「無戸籍児」の苦悩
連日のように繰り返される児童虐待事件の報道に心が痛む。平成27年度の虐待死は84人で、実に4日に1人、幼い命が虐待により犠牲となっている。一方で、出生から何らかの事情で戸籍がなく、実質「存在しない者」とされている「無戸籍の日本人」は年間約3000人、1日に8人以上発生していると聞いて驚かない人がいるだろうか。
誰も知らない
戦後の混乱期などを除き、日本で、出生届が出されていない「無戸籍児」の存在が顕在化し、多くの人の知るところとなる契機となったのは、1988年に発覚した「巣鴨子ども置き去り事件」である。
この事件は、父親が蒸発後、4人の子どもたちを育てていた母親が、恋人と暮らすために幼い兄弟の世話を長男に任せ、家を出たことから始まる。
母親は生活費として毎月数万円を送金し、時折様子を見に来ていたが、それも途絶えがちになった中で、子どもたちだけで暮らしていることを知ったアパートの大家が警察に通報。調査の中で、2歳の三女が14歳の長男の友だちに折檻(せっかん)されて死亡。遺体は雑木林に捨てられていたことが発覚し、アパートからはこの妹以外にも生まれて間もなく亡くなった子どもが白骨化して発見された、という心痛ましい事件である。
さらに衝撃だったのは2歳から14歳の兄弟たちは、いずれも出生届が出されていなく「無戸籍」だった、ということだ。
2004年、是枝裕和監督はこの事件をもとに『誰も知らない』という映画を制作し、カンヌ国際映画祭ほか、国内外の映画賞を多数獲得している。
行政の手も、学校も、近所の目すら入らない、まさに『誰も知らない』状態で育つ「無戸籍児」たち。子どもたちの幼さに比しての過酷な生活状況は、映像化されてさらに社会に衝撃を与えた。
こうした「親の住居が定まらず、貧困などの事情もあり、出産しても出生届を出すことまで意識が至らないか意図的に登録を避けるケース」の相談は減るばかりか増加している。子どもたちはまさに「誰も知らない」状況で生き、「自分で自分を証明できないこと」に葛藤を抱きながら暮らしているのである。
背景にあるのは「親の離婚」「貧困」「暴力」「虐待」等々。これらが複合的、重層的に絡みながら、彼らを追いつめる。
彼らは学校や地域という枠からこぼれている上に、「最後の砦(とりで)」のはずの役所や国に登録さえされていないのである。確かに存在しているにもかかわらず、「いないもの」として扱われ、ほとんど誰にも知られず、閉鎖的な空間の中で育つ子どもたちは、「自分は誰か」という問いに、おそらく誰よりも早く対峙(たいじ)しなければならない。
「巣鴨子ども置き去り事件」から30年が経つ。果たして状況は良くなっているのだろうか。
「成人無戸籍者」たちの憂鬱(ゆううつ)
無戸籍者が「無戸籍であることの不利益」をもっとも強く被るのは、実は学齢期ではない。
成人近くになり、自立をしようと思った時から苦悩が始まる。戸籍がなければ基本的には住民票もないため、給与の振込先の銀行口座を開設することもできず、携帯電話の契約も、マンションやアパートを借りることもできない。
こうして彼らは「誰かに頼む」か「誰かになりすます」しか生きる術がない状況に追い込まれるのだ。
それでも2000年代初期まではまだ良かったと、彼らは口々に言う。ここ数年で職場などで身元の確認や公的証明書の提出が求められるようになり、より「働く場所」に窮するようになってきているのだ。
住民票すらない中では今やマイナンバーも得られず、一般企業で働くことには制限が出る。当然、ブラック企業やアンダーグラウンドの仕事場が彼らを吸収していく。
しかし「非人間的」な扱いを受けても抵抗できない。「登録されない」「無戸籍」とはそういうことなのだ。
「できる」けど「できない」
近年では無戸籍者たちの存在も認識され、法務省においても「無戸籍者ゼロタスクフォース」が立ち上がり、状況の改善が図られている。
戸籍がなくとも一定の条件を満たせば住民登録が可能になったり、就学、医療保険、パスポート、そして婚姻、投票などもできるようになっている。
しかし現実には、制度的に「できる」と実際に「できる」は違う。機会を行使するためには幾重にも条件がつく。ひとつひとつ、一回一回が「交渉」となる。
例えば、婚姻だ。
私が支援した無戸籍者たちの中では、幾人かは無戸籍のまま婚姻した。多くはお腹に子どもがいて、無戸籍を連鎖させたくないという当事者たちの強い思いがあった。ただし、その過程は戸籍を得る過程と同等、もしくはそれ以上に困難を極める。
婚姻するのに際し、無戸籍者本人の性別の確認できるもの(出生証明書など)や、母または父ほかの「なぜ無戸籍だったのか」などについての陳実書等々、提出しなければならないものが多過ぎて大抵の人はあきらめてしまう。そもそも資料がないからこそ無戸籍なのに。
実際、無戸籍者、そして婚姻しようとする相手方の双方に婚姻の意志がありながらも結果的に婚姻できず、その後、別れるといったケースは無数にある。
日本国憲法第24条で高らかに謳(うた)われても、婚姻は「両性の合意のみ」では成立をしない。知識と証拠となるもの、そしてお金と根気。
戸籍がありさえすれば、タダで何の苦痛もなくできることなのに。
繰り返しになるが、この「できる」を役所の窓口では「できない」として行政指導される場合が本当に多い。むしろそれが通常だということだ。
特に学校教育を受けていない無戸籍者にとっては、役所の人間が言うことは「絶対」である。本人たちはその自覚がなくても、そのひと言に「できない」と思い込んでしまうといったケースが多い。
役所の窓口だけではない。国民にとっては正義を果たす最後の砦である裁判所ですら「担当者の違い」などにより、「できる」ことが「できない」にされてしまう。
宝くじを買うような「当たり外れ」が、公的な場所で現実にあるのである。
だからこそ、無戸籍者は一刻も早く戸籍を作りたいと願う。その思いで、行政に相談に行き、裁判所に向かう。
「普通の人として生きたい」と戸籍を懇願する彼らを次に待ち受けるのは、本来は彼らを守るためにあるはずの「民法」の壁、「法律」という壁なのである。
なぜこうした理不尽が解決しないのか。『日本の無戸籍者』(岩波書店)で詳しく解説している。
「明日、あなたの戸籍がなくなるかもしれない」という本の帯に書かれた言葉が決して大げさでないということを、誰もが知ることになるだろう。
(文/井戸まさえ)
<プロフィール>
井戸まさえ
1965年生まれ。東京女子大学卒業。松下政経塾9期生、5児の母。東洋経済新報社記者を経て、経済ジャーナリストとして独立。兵庫県議会議員(2期)、衆議院議員(1期)、NPO法人「親子法改正研究会」代表理事、「民法772条による無戸籍児家族の会」代表として無戸籍問題、特別養子縁組など、法の狭間で苦しむ人々の支援を行っている。近刊に『日本の無戸籍者』(岩波書店)。