映画「オズの魔法使」の3つの「ウソ」からわかるテクニカラーの歴史
テクニカラーは赤・青・緑の3原色に分解して撮影した3本のフィルムを基に1本のカラー映像にする彩色技術です。テクニカラーを使った作品では、1939年に公開されたミュージカル映画「オズの魔法使」が、モノクロ映像からカラー映像に変わる演出が画期的であるとして、高く評価されています。海外メディアのVoxによると、「オズの魔法使」には3つのウソが存在していて、そのウソがテクニカラーの歴史を知る上でとても重要であるとのこと。YouTubeで公開しているムービーを見ると、テクニカラーの仕組みと歴史がよくわかるようになっています。
映画「オズの魔法使」のこのシーンは印象的。主人公のドロシーがモノトーン映画の世界から……
テクニカラーの世界へ旅をします。
実はこのシーンに「3つの誤り」があります。この「3つのウソ」こそが、テクニカラーの歴史を知るのに役立ちます。
「1つめのウソ」は「『オズの魔法使』が最初のテクニカラー作品ではないということ」です。
1914年にHerbert Kalmus氏、Daniel Frost Comstock氏、W. Burton Wescott氏の3名が「Technicolor」を設立し、1920年代後半〜1930年代初頭の映画でテクニカラーが登場しました。
最初は赤と緑のフィルムで撮影して……
合成。すると、こんな色合いになります。
肌の色調はうまくいくのですが、青色が表現できないため、当時の映画に青いドレスは登場しませんでした。
青のフィルムが追加されたのは1932年。「花と木」の映画を見ると、青が入っているのがよくわかります。
当時、テクニカラーを反映するには、とても面倒なプロセスが必要でした。
テクニカラー用のカメラは撮影した写真を赤・青・緑のネガに分割します。
それぞれの色のネガを反転させ……
赤にはシアン、青には黄色、緑にはマゼンタというように、補色にあたる染料で染めて……
それぞれをフィルムに1枚1枚転写していました。これは「ダイ・トランスファー方式」と呼ばれています。
しかし、補色のみで色を強く強調することは難しいので、同社ではさらなるアレンジを加えています。たとえば、以下の画像で「赤」をより強調したいときは……
白と黒を足すことで、コントラストを強くしていました。
1936年の「丘の一本松」などを見ると、その効果がよくわかります。
「2つ目のウソ」は「オズの魔法使」でモノトーンの世界からテクニカラーの世界へ直接移動することは、できないことです。
モノトーン世界の家のドアを開けて、テクニカラーの世界に移動する場面、家の中にもかかわらず、ドロシーは既にテクニカラーの世界にいます。
現在では、範囲を選択してクリックするだけで、モノトーンにすることができますが……
当時はかなりの力技で、ドロシーの家の中はセピア色に染められていたのです。このセピア色の家を建てたという事実は、テクニカラーの技術的制約が、どのように全てのカラー映画を作ってきたのかを示しています。
これが、「オズの魔法使」を撮影するのに使用したカメラの1つです。同時に3つのフィルムで撮影する必要があったため、1台約180kg〜約230kgほどの重量があり、通常の映画撮影用カメラよりも巨大です。単純にスペースが必要なだけでなく、撮影時には過剰なほど多くの光が必要でした。
このため、撮影中のセット内では、気温が40℃近くに達していたこともあったようです。
しかし、テクニカラーは、場面によって強調したい色味を変更できるなど、利点の方が大きく上回っていたこともあり、長く使用されることとなりました。
「3つ目のウソ」はドアを開けたドロシーは偽物ということです。
彼女は、ドロシーの影武者でモノトーンの世界の色と調和する服とメイクを施しています。
影武者がドアを開けたあと、テクニカラー用の衣裳を着た本物のドロシーが登場するのです。
テクニカラーの能力はこれだけではありません。魔女が家の下敷きになっているシーンで履いている靴がルビー色です。
元の脚本では、魔女の靴は銀色でしたが、「Technicolor」の意向で、セットに映えるルビー色の靴に変更されました。
「オズの魔法使」「丘の一本松」「スター誕生」などのエンドクレジットを見てみると、「Natalie Kalmus」という名前が出てきます。
Natalie KalmusはTechnicolorの共同設立者であるHerb Kalmusと結婚した後、テクニカラーのアドバイザーとして映画業界に対して大きな力を持ち、後に300以上の映画のクレジットに登場することになります。Natalie KalmusのIMDbのページを見ると、どれほどの影響力があったかわかると思います。
Technicolorには独自のカメラクルーとプリント施設があり、技術は独占状態。Natalie Kalmusが会社を去った後も、テクニカラーが廃れるまでは絶大な影響力があったことは言うまでもありません。
撮影技術の進歩もあり、1974年の「ゴッドファーザー PART2」の製作を最後に、Technicolorのプリント施設が閉鎖され、テクニカラーの時代が幕を閉じることとなりました。