日本では味わえない生活を経験していたからこそ、サッカー人生を懸けた岡山で結果を残せたとも言えるだろう。
 
 だとすれば、帰国したばかりの頃は、まだ甘さがあったのかもしれない。
 
「たぶん、まだ精神的に弱かったんですよね。『俺が決めていれば』って考え込んだりして、真面目すぎた。岡山でゴールを取れるようになって改めて思ったのは、『なんで入らんのやろう』って考える暇があるなら、次の準備をしたほうがいいってこと。考え込んだら立ち止まってしまいますからね。過去を振り返っても戻れるわけではないので、常にポジティブに、ときには『次、決めればいいんでしょ』って、気持ちを切り替えることが大事」
 岡山時代にモノにしたメンタルの保ち方が、翌2013年シーズン、新潟での大ブレイクへとつながっていく。

 満を持して戻ったJ1の舞台で、ついに初ゴールが生まれたのは9節、清水エスパルス戦だった。それまでにやや時間はかかったものの、落ち着いて試合に臨むことができていた。
 
「J1で40試合ぐらいかかってやっと取れたゴールだったから嬉しかったですけど、その後も、いつもどおりの感覚でサッカーをしていたので、なんで取れるようになったのか、何が凄かったのか、自分でもよく分からなかったですね」
 
 特別なことは、何ひとつしていない。普段どおりの心持ちで臨めたからこそ、ゴール量産へとつながった。
 
 川又がこの年に積み上げたゴール数は、カテゴリーが上がったにもかかわらず、前年を大きく上回る23だった。
 
「でも、得点ランキングは2位だったからね。2位では誰の記憶にも残らない。やっぱり1位じゃないと意味がない。それは強く思いましたね」

 2014年夏に移籍した名古屋グランパスでは、2年半でリーグ戦18ゴールにとどまり、思い描いたキャリアを送れたわけではなかった。
 
 だが、それで川又が考えすぎることも、歩みを止めるようなことも、ない。
 
 ブレイクは、大きな壁にぶつかり、それを乗り越えることでもたらされるものだと、身をもって経験しているからだ。
 
「一生、点を取り続けられる選手なんて、スアレスとかメッシとかひと握りの選手だけですからね。点が取れていない間もずっとトレーニングをしていましたから。名古屋では身体づくりを含め、学ぶことが多かった。新潟時代よりもウエイトがはるかに増えた。ひと回り大きくなった自分がゴールを量産することで、成長した姿を見てもらいたいと思う」 

 ジュビロ磐田へは名波浩監督に直々に口説かれて、加入を決めた。指揮官はもちろん、中村俊輔の、チームメイトの、ファン・サポーターの期待は痛いほど感じている。
 
「結果を残さないといけないっていう硬さが1、2試合目に出てしまったけど、(ゴールを決めた)3試合目は肩の力を抜いてプレーできましたね。こうやれば、取れるんじゃないかっていうのは分かっている。あとは気持ちを上手くコントロールするだけですから」
 
 そう言って、成熟したストライカーは、不敵な笑みを浮かべた。

取材・文:飯尾篤史(スポーツライター)