野村克也の遺言「大監督たるリーダーの基本は『信は万物の基』」
「野村克也不倫!」
一部スポーツ紙に衝撃的な文字が躍ったのは、1969年のことだ。前任の南海・飯田徳治監督が、戦後初の最下位の責任を取って辞任。再建を託されたのが、まだ選手でもあった野村克也氏(当時34歳)だった。
そして、就任の要請を受けると同時に、冒頭の見出しがスポーツ紙に載ったのである。
「これは後でわかったことだけど、その記事をリークしたのは元南海監督の鶴岡一人さんだった。じつは要請を受けたオフに球場で会ったとき、『監督要請をされました。一度ご自宅へご挨拶に伺ってもいいでしょうか?』と聞いたわけ。
すると、いきなり『お前は監督という仕事をわかっているのか!』と鶴岡さんは怒り出した。南海を作り上げた自負があるから、テスト生上がりの俺にやらせたくなかったんだな」
恩師と思っていた人物からの意外な言葉。その後、監督と選手を兼務する難しさが加わり、1977年に南海の監督を解任されてからは、監督という選択肢を自ら消そうとした。
だが、思わぬ人物から声がかかる。パ・リーグひと筋の野村氏に要請したのは、当時セ・リーグで低迷していたヤクルトの相馬和夫球団社長だった。
「まったく縁もゆかりもないヤクルトだったから、意外だったね。で、『なぜ僕なんですか?』と聞いたわけ。
すると、『野村さんの野球解説を聞いて感動した。野球にはこんな考え方もあるのかと。だから、あなたの考えでヤクルトを強いチームにしてください』という答えだった。嬉しかったね。見てくれている人は、ちゃんと見ているんだと」
これまで野村氏は、プロでは南海に始まり、ヤクルト、阪神、楽天の監督を務めてきたが、ただの一度も要請を断わったことがない。
「俺のところに来るということは、球団内で熟慮の末のこと。ならば、断わる理由はない。ただし、ひとつだけ条件があって、就任1年めで優勝を期待するなら断わるということ。戦力を見て断わるやつがいるでしょ。星野仙一なんかその際たる例だわな(笑)。
まあ、俺が引き受けた球団は、すべて下位に低迷していたからね。相馬社長は、『かまいません。3〜5年かけて優勝争いのできるチームを作ってください』と言ってくれたよ。この人がトップに立つチームなら、やっていけると思った。
事実、ヤクルト1年めの成績は前年からひとつ下げて5位。相馬社長は、役員から『総攻撃を受けた』と吊るし上げを食らったらしいんだ。でも、『野村さんならきっと変えてくれる。いまは我慢の時』と押し切ってくれた。組織はリーダーの力量以上に伸びない、と再確認させられたよ」
日本一に3度輝いたヤクルトでは、組織のトップである相馬社長と厚い信頼で結ばれていた。ひとつの例が、1992年のドラフトでの出来事だった。
「編成部の全員が、『向こう10年、四番は彼で大丈夫』と、松井秀喜を推した。でも、俺は翌年も結果を残さないとクビの可能性がある。10年先じゃなく即戦力として、社会人出身の投手・伊藤智仁が欲しいと言った。
それでも、編成部は松井一辺倒。ドラフト当日まで揉めたんだけど、最後は相馬社長の『つべこべ言わずに監督の希望でいこう』という鶴の一声で決まったんだ。
ヤクルトの監督は9年やったけど、俺にとってのヒーローは相馬社長だった。その後、阪神、楽天の監督をやったけど、相馬社長のような存在はいなかった。
阪神なんか1年めが終わった時点で、『やっていく自信がない』と辞任を申し出た。想像以上に現場以外がダメな球団だったし、このとき初めて球団は選ばないかんと悟ったよ(笑)」
フロントに掛け合いながら、現場に出るのが監督の立場。いちばん大切なことは、選手との信頼関係だという。
「これまで、大監督といわれる人のほとんどが選手から信頼されていた。信は万物の基をなす、ということだな。その意味でも、監督の発する言葉は大事。
俺は鶴岡さんとはうまくいかなかったけど、かけてもらった言葉はいまも忘れない。3年めだったかな、ふだんは挨拶をしても無視するような人が、いきなり『お前、ようなったなあ』と言ってくれた。認めてくれているんだと、自信がついた。
多くを語る必要はない。ひと言でいいんだよ。監督のひと言が、選手に多大な影響を及ぼすくらいにならないと。それが大監督であり、真のリーダーなんだよ」
(週刊FLASH 2017年1月3日号)