最初の一人は山形、大分トリニータで一緒に働いた石崎信弘監督(現山形監督)だ。かつて手倉森監督はこんなふうに語っていた。

「石さんはとてもまじめ。トレーニングも緻密に計算していて、最初に決めたスケジュールは絶対そのとおりにやり抜く。その計画性や信念に、プロの監督とはこうあるべきなんだと思った」

 実は、28歳の手倉森監督に引退を勧告したのも、この石崎監督だった。将来のJリーグ入りを目指し、翌年から「モンテディオ山形」とチーム名を変えることが決まっていた95年のシーズン中に「コーチにならんか」と声を掛けられたのだ。

「ショックでしたよ、突然だったし。選手兼任でもいいっていう話だったけど、それは断った。中途半端になったら周りに失礼だから。で、選手を続けたいって言ったらどうなるんですかって聞くと、『だったらクビや。ワシ、使わんもん』だって(苦笑)」

 さらに石崎監督の「今辞めれば、同世代の誰よりも経験を積めて、良い指導者になれるぞ」という言葉に背中を押されたという。

「確かにユース代表でチームメイトだった井原やゴン(中山)はクラブでも代表でも第一線で活躍しているけど、俺はJFLでもがいている。この先、選手として陽の目を見ることはもうないだろう。でも、今から指導者の道に進めば、彼らが引退する頃には俺は相当な経験を積んでいるはずだって、自分に言い聞かせて、現役の未練を断ち切ったんだ」

 二人目は99年に石崎の後任として山形を率いた植木繁晴監督(現上武大学サッカー部監督)である。

「植木さんはゲームを読むうまさのある人だった。0-2から逆転を狙うような、ギャンブル的な采配を何度も見せて。采配に幅があって、若い俺には格好良く見えたね」

 選手の人心掌握にも長け、コーチの手倉森監督に怒らせておきながら、優しい言葉で場を和ませたり、逆にいきなり怒鳴ってみせたりもする。

「植木さんからは、監督は役者である必要もあるって学んだ」

 三人目は、大分で出会った小林伸二監督(現清水エスパルス監督)だ。

「小林さんは組織的にも、戦術的にもチーム作りに長けた監督だった。ミーティングもシンプルで分かりやすい。あと、個を伸ばすトレーニングも考えていて、ビデオなども作ってあげる。実際に高松(大樹)や松橋(章太)がみるみる成長していって、見ていてとても勉強になった」

 こうした監督評と、手倉森監督がU-23日本代表で見せたチーム作りや采配――限られた時間で逆算したチーム作り、毎試合メンバーを入れ替える大胆な起用、勝負どころを見極めた選手交代、ダジャレを交えたミーティングや個別のコミュニケーションなど――を照らし合わせれば、確かに影響を受けている部分があることは伺える。