ハロウィンこそがウォルト・ディズニーの原点/純丘曜彰 教授博士
最初のディズニーランドがカリフォルニア州アナハイム市にオープンしたのは1955年。それより前、アナハイム市では、すでに1924年からハロウィン祭を開催している。アナハイム市ができたのは、1857年。ローテンブルク生まれのドイツ系入植者50名によるカリフォルニア・ワインの生産地としての開拓だ。1884年、ブドウが疫病で壊滅。これに代わって、オレンジなどが作られるようになり、県の名前もいまやオレンジ・カウンティ。
それより前、1845年から49年にかけてアイルランドの主食、ジャガイモに疫病が蔓延し、大飢饉となった。貧しいアイルランド農民たちは、飢餓と病気と死が詰め込まれた「棺桶船」に乗り込んで、命懸けでカナダ東岸に脱出。おりしもカリフォルニア州でゴールドラッシュが起こり、多くのアイルランド系も、遅ればせながら、さらに西岸へと向かったが、すでに主だった金鉱は掘り尽くされ、だれもうまくはいかなかった。しかし、1887年に鉄道ができたこともあって、アナハイム周辺で、オレンジをはじめとする商品作物農業に従事するようになる。
ウォルト・ディズニーは、ミズーリ州の出身だが、一家はもともとアイルランド系移民で、その父はカナダ生まれ、カリフォルニア州で金鉱探しをしていたが、うまくいかず、シカゴなどを転々とした末に、結局、ミズーリ州の弟の農場に転がり込んでいた。ウォルトにしても、カンザスに出て、19歳でアニメ制作の個人事務所を起こしたものの、すぐに倒産させてしまい、ロスに移ってスタジオを再興したものの、社員の引き抜きに合い、低迷を続ける。そして、1928年秋、できたばかりのトーキーの技術を使った「蒸気船ウィリー」でミッキーマウスを登場させ、ようやく事業を軌道に乗せた。
しかし、とにかく連作をしないことには生き残れない。あくまで音楽が主で、それに絵がついていれば売れる、ということで、翌29年に『シリー・シンフォニー』シリーズを企画。その最初のパイロットフィルムが、ハロウィンを題材にした「骸骨ダンス」。6分弱の白黒ショートフィルムながら、これを見たコロンビア映画社は、他の作品と組み合わせる番組用として契約、このシリーズは全米に配給されることになり、ディズニーは、その後、大きな成功を収めていくことになる。
もともとハロウィンは、アイルランドのカトリック、というよりケルト系の収穫祭。米国で知る人はいなかった。しかし、飢饉のせいで米国に渡り、その後も苦労を重ねてきたアイルランド系移民にとっては、このハロウィンは本国以上に大きな意味を持っていた。本国の飢饉で亡くなった人々、志半ばの渡航の棺桶船で亡くなった人々、そして、米国に辿りついてなお、そのカナダ東岸からカリフォルニアへのトレイルで、また、金鉱探しや農場経営の失敗で亡くなった人々。アナハイム市民やディズニーからすれば、これらの不遇の死者たちと収穫を共にするハロウィンは、みんなどこでもやっている祭りだと思っていた。そのことを知らなかったがゆえに、ディズニーのアニメやアナハイム市のディズニーランドでは、当然のようにハロウィンを祝い、そして、これらをきっかけに、ハロウィンというものが、米国中、そして世界中に広まっていくことになる。
カトリックにおいても、ハロウィン(聖晩)は、11月1日の聖者の日の前夜を祝うもの。つまり、キリスト教が弾圧されていた初期のローマ時代の、数多くの殉教者たちの慰霊祭。この世は生きている人間だけで作ったわけじゃない。むしろ、いまの生活の繁栄は、過去の人々の苦労の積み重ねの結果。わけのわからないおっさん、おばさんのコスプレのバカ騒ぎもけっこうだが、すでに世を去った人々、そしてまた、自分が去った後を担っていく子供たちと幸せを分かち合う気持ちも大切にしたい。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』などがある。)