行動のなかの幸福 〜笑うから幸福なのだ/村山 昇
〈じっと考えてみよう〉
高校2年になった瑞季(みずき)は、はやくに父を病気で亡くし、以来、母と妹と3人暮らしだ。母は生活を支えるため仕事に忙しい。母とはいっしょに遊んでもらったことも、ましてや家族旅行などにも連れて行ってもらったこともない。が、明るく気丈にふるまっている母の姿には感謝をしている。瑞季も勉強と部活の合間にアルバイトをしている。大学か短期大学に進学するために、少しずつだが貯金をするためだ。
ある土曜の晩、母は瑞季にある誘いをした───
「明日の昼に、盲学校で朗読会のボランティアがあるんだけど、いっしょに行かない? 生徒さんたちに本を読んであげる会よ」。
「えー、なんでわたしたちがボランティア? うちこそお金なくて助けがほしいくらいなのに。そういうのって幸せで余裕がある人がやるもんじゃないの」……。瑞季はバイトの疲れや勉強の悩みもあって、つい、とがった言葉で返してしまった。とても行く気になれなかった。
翌日、朗読会から帰宅した母は、とてもすがすがしい様子だった。「健康で生きていられるって、それだけですばらしいことね」とひとこと放ち、さっそうと台所に立った。
□「幸せだから、人助けができる」のだろうか、それとも、「人助けするから、幸せ」なのだろうか?
フランスの哲学者アランが『幸福論』(白井健三郎訳、集英社文庫版)で説く幸福は、一貫して行動主義的である。それを表わす有名な一節がこれである。
「幸福だから笑うわけではない。
むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」。
わたしたちのほとんどは、自分がまず幸福という状態にいて、だから笑うんだと思っている。逆に言えば、自分が幸福な状態にいなければ、笑うことはないと思っている。だが、アランはそう考えない。自分がどんな状況にあったとしても、心を起こして、まず笑ってみる。それが幸福なんだ、と。アランはこうも書く───
「人間は、意欲し創造することによってのみ幸福である」。
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する。(中略)あらゆる幸福は意志と抑制とによるものである」。
悩みがなにもないことが幸福ではない。竜宮城のような楽園で永遠に暮らすことが幸福ではない。むしろ、自分の置かれた状況が苦しくとも、なにか理想に向かって創造していることじたいが、ほんとうの幸福である。幸福はそのように、静的な状態をいうのではなく、動的な行いそのものであるというのがアランの主張だ。
もう少しゆるくとらえて、ある心地よい状態に身をうずめて、安楽でいられることが幸福だとしても、その幸福は、不安定で弱い幸福と言わざるをえない。そうした静的な安楽状態にとどまっている人ほど、いまの幸せがいつまで続くのか不安でたまらない、この幸せをなくすのが怖いと思いはじめる。その心の状態をはたして幸福と言っていいのだろうか。それに対し、意志を持ってなにかに動いている人は、苦しさやしんどさはあるが、その喜びは強くて安定している。
「動けば動くほど安定する。動かなければ不安定になる」───このことをよく知るためには、玩具のコマを思い出してみるとよい。
コマは指やひもを使って回転の力を加えると、軸が立って回りだす。ところがだんだん回転速度が遅くなってくると、軸がぐらつきはじめ、やがてごろんと倒れる。つまり、コマは回転力が強いときほど安定し、回転力が弱いと不安定になる。わたしたちがつかもうとする幸福もこれと似たところがある。心地よい環境にひたって動きを止めている安楽は不安定でもろい。動きのなかで感じている幸福は、安定して頑丈(がんじょう)である。
「幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい」というアランの行動主義的幸福は、いろいろなことに広げて考えることができる。つまり───、
動かずにえられる平和などない。だから、平和を成すのだ。
動かずにえられる自由などない。だから、自由を活かすのだ。
動かずにえられる正義などない。だから、正義を行なうのだ。
動かずにえられる友情などない。だから、友情を築くのだ。
動かずにえられる愛などない。だから、愛するのだ。
動かずにえられる健康などない。だから、健康をつくるのだ。
幸いなことにわたしたちは生まれながらに、平和や自由が当然のように与えられた。が、それらは過去の人たちが苦闘のすえに勝ち取り、整えてくれたものだ。それを受け継ぐわたしたちは、その恩恵にじっとうずくまっているだけでは、平和や自由は崩れてしまうだろう。それはコマが回転力を弱めたときにごろん倒れてしまうように。平和や自由は、ただ観念としてそこにあるのではなく、みなが平和を成すように動く、自由を活かすように動くことで、強く立ち上がってくるものなのだ。
[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]