100年前のロシアで撮られたカラー写真

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1910年から6年にわたって帝政ロシア末期の各地をカラー写真で撮影した作品を紹介。当時の産業や最先端の技術、人々の生活などが鮮やかに捉えられている。

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最後のロシア皇帝ニコライ2世は1909年、写真家セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーに対して、加法混合(三色合成)を使った新しいカラー撮影技術を使用して、ロシア帝国を撮影する権限を与えた。赤・青・緑のフィルターを通して3枚のモノクロ乾板を素早く連続撮影することによりカラー写真を撮る方法だった。

プロクジン=ゴルスキーは、ドイツでカラー撮影法の開発者であるアドルフ・ミーテと共に学んだあと、ロシア文学の巨匠レフ・トルストイカラー写真の撮影に成功し(以下の画像)、この分野での革新者としての名声を得た。

1908年に撮影されたトルストイ。画像はWIkimedia Commons

この写真によりプロクジン=ゴルスキーを知ったニコライ2世は、ロシア撮影プロジェクトを承認しただけでなく、暗室を備えた特製の貨車さえも与えた。



中央アジアのブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)マンギト朝、最後のアミール(国王)となったアーリム・ハーン。在位は1911年1月3日〜20年8月30日。20年にボリシェビキがブハラを併合し、ブハラ人民ソビエト共和国を宣言したとき、アミールはアフガニスタンに亡命。44年にカーブルで死去した。

ロシア各地をあまねく訪れたプロクジン=ゴルスキーは、6年にわたって10,000枚の写真を撮影した。それらは、ロシアの豊かな文化、産業、建築を体系的に記録している。

1917年の10月革命まで彼は撮影を続けたが、その翌年にロシアを離れ、パリに移住した。そして、3,500ものフィルムと写真を残して活動を終了した。

メロンを売る、サマルカンドの露天商人



スモレンスクの聖母マリア昇天教会にある、オディギトリアの聖母像。

米議会図書館は1948年、それらのフィルムをおよそ5,000ドルで購入した

2000年に、それらの画像は展覧会に出品されるべく、デジタルによる再調整が施され、手動による露出の組み合わせや、被写体のわずかな動きの結果発生した多数の色の不具合が取り除かれた。ここに紹介した画像はすべて、デジタル処理が行われたものだが、オリジナル版も独特の魅力をたたえている。



中央アジアのZindan(刑務所)。鉄格子越しに外を見ている囚人たちと、ロシア製ライフルを持ち、制服とブーツを身に付けた警備員。



ロシアの伝統的な丸太小屋で、訪問者にベリーを提供する3人の女性。キリロフの街近くを流れるシェクスナ川沿いの農村部で撮影。



製粉用風車。トボルスク県のヤルトロフスク市で撮影。



ベルームト近くのオカ川を横切るダムの基盤のためにセメントを流しこむ準備をするなか、撮影のためにポーズを取る作業員と監督官。



茶を収穫する、ギリシャから来た移動労働者たち。



トルクメニスタン人あるいはキルギス人と思われる女性。伝統的な衣装と装飾品を身に付けて、ユルト(カザフ人やキルギス人が用いる移動式住居)の入り口に置かれたカーペットの上に立っている。



キアッペセルガの兵舎の前に並ぶ、オーストリア人の戦争捕虜たち



バカリーヒルの鉄鉱山で働く家族。シャベルを持ち、馬車に乗っている。



セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーと複数の人たち。チュソヴァニア川堤防の岩近くでのナイト・キャンプにて。



チェルニゴフ水門の管理人を66年間務めた、84歳のインクフス・カーリンスキ。



ラドガ運河に浮かぶ木材。レニングラード州の西部にある都市シュリッセリブルク市で撮影。ラドガ運河はラドガ湖南岸を迂回する水上交易路で、18世紀から19世紀にかけて建設された。シュリッセリブルク市には、有名な要塞があった。要塞および歴史的街並みは現在、ユネスコの世界遺産になっている。



丘の斜面に座るロシアの子どもたち。ホワイト湖近郊の教会と鐘楼の近くで撮影。



サマルカンドにあるシェイク・アイ・ズィンダ・モスクの壮大な眺め。



カメンカ川沿いにあるウラジーミル州の古都市スーズダリの眺め。「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」は、現在ユネスコの世界遺産に登録されている。



聖ダヴィデ教会から臨むティフリスの景色。